【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『はじまりの日』川瀬えいみ

 もうすぐ夏休みという頃。その日、三年生の授業は午前中だけだった。一人で帰るのがいやだった私は、喧嘩をしている他の女の子たちに見せつけるように、淑子ちゃんを誘った。
「ねえ、今日、淑子ちゃんちに遊びに行っていい?」
「あ……」
 『それは困る』と言えない淑子ちゃんと一緒に、私は、あの日初めて、学校の北側にある山道に足を踏み入れたのだ。
 山中の道は、緩急はあったが、ほぼ上り坂のみ。途中から舗装されていない砂利道になり、やがて砂利も敷かれていない土の道になった。道幅も狭くなり、轍もなくなる。
 道の両脇に鬱蒼とした木々。陽光は地面に届かず、辺りは薄暗い。この先には狐や狸の住処しかないのではないかと、怖くなるほどだった。
 一時間半ほど山道を登った頃、急に様相が変わって世界が開けた。山の上なのか、山と山の狭間なのか、ふいに明るい平地が現われたのだ。
 そこにあったのは豆畑やトマト畑。壁だけでなく屋根も木の板でできている住居らしき建物が四、五軒。
 その中の一軒に向かう淑子ちゃんのあとを、私はどぎまぎしながらついていった。
 小さくて暗い家だった。土間があって、竈がある。仕事に行っているのか、家には誰もいない。
 私が喉が渇いたと呟くと、裏の湧き水を飲みに行こうと言われた。
 ランドセルを置いて、家の外に出る。そこには小さな小川があった。
 流れの源は、山肌の岩の間から漏れ流れる湧き水。淑子ちゃんの真似をして、手ですくって飲む。
「冷たい! 美味しい!」
 歓声を上げた私に、淑子ちゃんが、さくらんぼより一回り小さな赤い実を一粒差し出してきた。
「これ、食べれるよ。隣りの木の緑の実も」
 楕円形の赤い実と透き通った緑色の実。どちらにも素朴な甘みがあった。
 田舎育ちだが、野生の果実(?)を食べるのは初めてのことで、私は昂奮した。
「初めて食べた! 不思議な味!」
「赤いのがグミ、緑のがスグリだよ。秋になれば、アケビや栗なんかも取れるんだけど」
「へえ。いろいろあるんだね。あ、あの花、初めて見る」
「黄色いのはハンゴンソウ。房になってる白い花は、オカトラノオ。虎の尻尾みたいでしょ」
「夏なのに涼しい。空が綺麗すぎる!」
「山の木に遮られて、お日様の光が届かないからね」
 日が当たる場所は限られていて、そこは畑になっているのだそうだった。
 山道を子どもの足で一時間半。小学校からさほど遠く離れていない場所のはずなのに、私の目には、世界の色が違って見えた。水の澄み方も、山の下の小川とは違う。空も澄んで、どこまでも青く高い。
 美しい花。山中に響き渡るような鳥の囀り。
「ここ、昔話の別世界みたい」
 魔法をかけられたような気持ちで、私は、淑子ちゃんと一緒に、不思議な世界を探検してまわった。
 遊び疲れた頃、夕焼けの中、淑子ちゃんが下界が見える場所まで私を送ってくれた。

 その後の私の小学校生活は、いつのまにか仲直りしたクラスメイトたちと淑子ちゃんと一緒。
 楽しかった。毎日、当たり前のように楽しかったから、具体的なことはほとんど憶えていないけど。
 私が淑子ちゃんの家に遊びに行くことは二度となかった。四年生になると、授業が午前中で終わることがなくなり、下校時に寄り道できる時間がなくなってしまったのだ。
 やがて、小学校卒業。小学校の卒業式に淑子ちゃんは来なかった。その日、北の山で崖崩れがあって、淑子ちゃんは学校まで来れなかったと聞いた。
 私は、それ以来、淑子ちゃんとは会っていない。
 翌四月。クラスメイト全員が入学すると思っていた町の統合中学に、淑子ちゃんの姿はなかった。

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