アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。
鏡に映る顔。思わず漏れるため息。今日、俺はついに五十歳を迎えたが、子どもの頃に抱いたイメージとは随分とかけ離れている。もっと威厳のある大人になると思っていた。
家では和服を着て、顎髭を撫でながら縁側で詰め将棋に興じては熱い緑茶を啜るような。
鏡に映る俺は・・・・・・毛玉の付いたセットアップのジャージがヘビーローテーション。五十歳らしさを感じさせるのは目の横にできたシミ、額のシワとほうれい線、ポテッと出た腹に広くなった額とちらほら目立つ白髪。あ、最近は膝と腰が痛む。加齢による劣化ばかりが俺に現実を突きつける。
ジョギングでも始めようかと考えたのは半年前だった。しかし、今の俺は昼間っからビールを飲んではスマホのゲームに興じてばかりいる。和服なんか着ようものなら娘に「関取ですか?」と冷ややかな視線を向けられるのが容易に想像できる。
「んっんっ、ゴホン! わ、わ、わしは・・・・・・」
せめて一人称を「わし」にしようと思い付いたのは昨晩のこと。違和感なく口にできれば、自然と振る舞いに威厳が伴ってくるんじゃないかと考えた。その発想が子供染みているのだろうが、まぁ良しとしよう。
「さぁぁ、今日のわしは何をしようかな」
一人、呟く。こそばゆい。まずは己の違和感を払拭せねば。
「おはよう」
少し声のトーンを下げてみた。
「おはよー。ごめん、新聞取ってきて」
「あ、あぁ」
おいおい、誕生日おめでとうの一言もなく必要最低限の言葉で指示とは何事だ。
「あなたー!」
「なんだー?」
「ついでにルーちゃんのエサもお願い!」
「ったく」
「なんか言った?」
「なんもないですよー」
せめて愛犬だけには威厳を示すべく、丸めた新聞片手に指示を出す。
「おすわり! ルー、おすわりだ」
ベロを出し落ち着きのないルーの視線はドッグフードの袋に釘付けのまま。
「ルー! ルーちゃん! ほら、こうやって。座るんだ! お、す、わ、り!」
「ちょっとパパ! 朝からうるさいって。ルーと相撲でもする気?」
二階の窓から向けられる芽衣の怪訝な顔と蔑んだ目が痛い。おすわりの手本を示したつもりが、まるで力士の仕切りなのは自覚している。
節目の誕生日だというのに、どうも朝から調子が悪い。
「ルー、わしの言うことが聞けんか」
ルーは「俺」だろうが「わし」だろうが関係ないとばかりに、ドックフードに夢中である。
彼にとって我が家のボスは妻の佳苗、次いで娘の芽衣。そして、ルーと続き、最下位は俺だ。
食卓では佳苗と芽衣のトークに花が咲いていた。「今日はミキトと映画行ってくるから」などと、親を前に平気な顔して言う芽衣に「へぇ、いいなぁ。何観るの?」と佳苗が呑気に返す。
「いいか。六時には帰るんだぞ」
新聞で顔を覆いながら、二人には決して聞こえぬ蚊の飛ぶ音のような声を出す俺。
「あなたの予定は? 私は買い物に行くつもりだけど」
おっ、チャンス!
新聞を横にずらして顔を出し、少し目を細めて思案する顔を渋く決める。
「そうだなぁ・・・・・・」
よし、今だ!
「わ、わ、わ、わし、わし、わ、わ・・・・・・」
「えっ? あなた?」
「あっあぁ、ごめん。なんだか言葉がうまく出てこなくて」
「脳梗塞じゃないよね? 若くないんだから気を付けてよ」
「だ、大丈夫さ」
「せめて私が大学入って、卒業するまでは頑張って稼いでもらわないと」
そんな辛辣な言葉をスマホの片手間に言いやがって。しかし、そんな気持ちに反して「分かってるよ」の言葉を無意識に返した。
あぁ、威厳が欲しい。神様、どうか俺に威厳を授けて下さい。
「わ、わし、鷲原神社まで散歩しようかな、運動不足だし」
「それ、いいと思う」
佳苗と芽衣の声が揃った。
かくして朝食を終えた俺は、鷲原神社へと歩き始めた。十月とはいえ日差しに暑さを感じる。日頃の外出はもっぱら車か、せいぜい電動自転車の俺に徒歩はキツい。散歩などと思わず口走ったが、スマホで調べると片道三キロもあるじゃないか。