「もう帰るのか?」
と声を掛けてきた。うん、と父に背中を向けたまま返事をした。そのときから電車に乗っている間、ずっと背中のあたりがむずがゆかった。電車に乗り込み掛川を出発し、十分ほど経って携帯を見ると、いつでも帰ってきてね、と母からメールが来ていた。そのせいで、その症状がさらに悪化したことは言うまでも無い。
名古屋に向かって走る鈍行は、掛川が名残惜しいのか、僕を乗せてゆっくりと進んでいった。
名駅の近くの定食屋で遅めの昼食を済ませ、家に帰ると午後四時をまわっていた。試しに、ただいま、と言ってみたが、もちろん返事はなくて、代わりにもんもんとした熱気が僕を出迎えた。服を洗濯機に放り込んで、パンツ一丁になってたまっていた食器洗いに取りかかった。
「そんな格好でふらふらしないで」
母の声だった。不意に耳の奥から聞こええてきたその声は、全身を優しく包み込むような透き通った声だった。
目頭が熱くなるのを感じて、慌てて天井に目をやった。引っ越してきてからずっとうつむいて生活していたからか、見慣れない景色が飛び込んできて驚く。それと同時に、思い
のほか天井が低く感じられた。体ばっかでかくなってしょうが無いんだよ、と僕は自分に言い聞かせて、短く笑った。
ふと思い立って、僕は部屋の真ん中に立ち、精一杯息を吸った。肺がはち切れるくらいに、これまでここに蓄積されたため息の混じった空気を残さまいと。息を止めて、急いで、しかし吸い込んだ空気が漏れないよう慎重にベランダへ出る。何か大声で叫んでしまい気分だったが、ちょうどいい言葉が見当たらない。そこで、下の通りを歩いていた若そうな女の人と目が合った。きれいな人だ。同じ大学の人だろうか。自然とほおが緩む。すると、今がチャンスだというように、口の中で逃げ場を失っていた空気たちが一斉にそとに流れ出た。
「どうも」
挨拶とも感謝ともとれる拍子抜けた言葉。しかし、今の僕の状況にぴったりな言葉だった。そいつは夕方の柔らかい風に乗って、オレンジの空に溶けていった。
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