それから月日は経ち、十年、二十年、三十年……。年月が経つということは変化が起こっていくということだ。私は三十代半ばに差し掛かり、祖父は亡くなり、祖母も九十になろうとしていた。大変だからとお正月に親戚一同が集まるようなこともなくなった。私も自立し、自分のことで忙しくなった。祖父が亡くなった時以外に、祖母の顔を見に行く機会もなく、祖母の様子は母から近況を聞く程度になっていた。
祖父が存命の時までは、祖母も緊張感があって、日常生活に困るような衰え方もせず、老夫婦ふたりで協力しあいながらどうちゃらこうちゃら仲良く生活していた。だが、祖父が亡くなってからは、急に衰え始めたようでボケてしまったような発言や、家族のこともたまに忘れていたり、持たせていた緊急通報装置のボタンを誤って頻繁に押すようになったりしていた。それでも自分の家で生活したいという祖母の意思を尊重し、極力そうさせてはいたが、たまに母が様子を見に行くと家の中が荒れ果てていることもあった。介護が必要な程に健康上や身体的な問題があったわけではないが、やはり一人で住まわせるのは心配なので、介護ホテルに住むことになった。自由に生活ができ、かつ常に見守ってくれるスタッフが近くにいるので、安心ではあったが、介護ホテルにあのスーパーばあちゃんの祖母がはいるという、〝祖母が老いた〟という現実が私には衝撃だった。
あの祖母が、すっかり耳も遠くなり、風になびいていたおしゃれな紫メッシュも真っ白になり、たまにボケて支離滅裂なことを言ったりと、以前とはすっかり変わってしまったことを私は自覚した。そりゃぁ幼稚園児だった私が三十代半ばに差し掛かっているのだから、祖母もいつまでもスーパーでいられることはないのはわかっている。だけどショックだった。
私自身はというと、仕事こそせっせと真面目にやっていたが、なかなか良縁には恵まれずいまだ独り身だった。こればっかりは焦ってもしょうがないとは思っていたが、祖父祖母が元気なうちによい知らせを届けたい思いもあり、自分なりに必死に努力し行動していた。そして祖父は亡くなってしまった。間に合わなかった。せめて祖母だけにでも、と一層焦る。一体、結婚に向けて何年頑張り落胆し恥ずかしい思いをして年月を費やせば実を結ぶのか。努力だけでは叶わない現実に焦る一方だった。どんどん自分が嫌になっていく。そんな感じでなので負のスパイラルにはまり、ますますよい知らせを届けることはできなかった。
うまくいかなくてすっかり疲れ切ってしまい、いったん全てやめてみることにした。「休憩だ!」と思うと、頭の中に少し余白ができたのか、昔のことを思い出した。ふと幼少期に祖母が「にゃはははははは!」と豪快に笑っていた姿を思い出した。祖母自身が楽しそうなとき、笑顔につられて周りも笑ってしまっていた。その実力は寡黙な祖父にも笑いの魔法をかける力があった。今の私はというと全然笑っていない。全然笑っていない私に誰が魅力を感じて一緒にいようと思うもんか。もがくことも大切だけど、それよりもまず自分自身を大切にして笑顔でいられる生き方をしよう。
そんな心構えでリラックスして生きるようにしたところ、何がどうした、縁があり、トントントンと事が運び、私は結婚した。スーパーばあちゃんが遠隔で力を貸してくれたのだろうか?祖母は高齢ということもあり、諸状況により直接会っての報告ははばかられた。夫も挨拶をしたいと言ってくれたが、母から「孫が誰かも分からないかもしれないから、お母さんから報告しておくよ」そう言われ、実娘の母がそう言うならと、母にお任せすることにした。