【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『椅子のあるベランダ』保科 史歩

  ソファが無事設置され、お兄さんと中年と三人で部屋の最終チェックを行った。全て朝子が配置を決めた家具はどれも鈍い色をしていて、気だるげに横たわっているように見えた。

 晴彦がある日突然部屋に置いてあったウォーターサーバーの位置を変えたこと。その理由が、朝子の留守にやってきた会社の同僚の女に部屋のレイアウトについてアドバイスをされたからだったこと。とても不快でなんだか許せないような気持ちになったのに、朝子はそれをどうやって晴彦に伝えればいいかわからなかった。
「ウォーターサーバーの位置が変わったことが嫌だったの?」
「うん」
ダブルベッドの上で体育座りをしながら彼と向き合った。
「朝子が嫌なら戻す。別に俺はウォーターサーバーにこだわりとかないし」
「私だってそんなにウォーターサーバーに執着してないよ」
「じゃあいいじゃん。戻そう。元あったところに」
ぎしぎしと音を立てベッドから降りた晴彦は、まだ水のボトルを変えたばかりのウォーターサーバーを持ち上げて、二人で引っ越してきた時最初に置いた場所へと運んだ。
「なんかね」
「なに?早苗はただの同期だし、でももう二度と家に入れないよ」
「そうじゃないんだけど」
「ねえ。笑ってよ。今夜は美味しいごはん、食べ行こう?」
晴彦が浮気をしていたのかどうか朝子にはわからない。でもおそらくなにもしていなかったのだと思う。そうでないとわかりやすく家電の位置を移動させたり、その理由をあっけらかんと話したりはしないだろう。ただたったさっき晴彦が移動させたウォーターサーバーは早苗サンが決めた場所にあることが正解のように思えて仕方なかった。

 何が決め手とか、誰が悪いとか、朝子は特に考えるでもなく2LDK家賃十八万八千円のマンションを出た。そして、その三分の一の値段のアパートに引っ越してきた。
業者が去ってほとんど完成形に近いワンルームを見渡すと、どこか晴彦と共に住んでいた部屋のリビングに似ていた。ソファの向きや掃除機の場所、ベランダから差し込む光の強さまでも、朝子がこの先何年と思い描いていた未来と似たような雰囲気を持っていた。
段ボール詰めが下手くそでくしゃくしゃになってしまったシャツ類を一気に洗濯機へと放り込む。薄い枕をシングルベッドのど真ん中に置く。小さな椅子とガラス製の灰皿をベランダに用意する。つっかけ用のサンダルを履いて物干し竿を設置する。部屋の中を動き回っていると額に汗が浮かんできて、一つしか持ってきてないマグカップに水道水を注いで一気に飲み干した。洗濯機がピーピーと終了の合図を送る。プラスチックの洗濯籠を山盛りにしてまた、ベランダへと向かう。

 洗濯物を干す前に煙草へ火をつけた。小さな椅子に腰をかけると、案外眼下の町など見えないことに気づく。いつも晴彦が椅子に座り、朝子は彼の隣に立ちマンションの下の景色を指さしながらいろんな話をした。彼はその一つ一つに丁寧な返事をして、さも同じ景色を見ているかのように頷いていた。でも、いくら彼の背が朝子より高かったとしても、椅子に腰を掛けていては大して何も見えないのである。

 ハンガーを物干し竿にかけていく。朝子をすっぽりと包み込める大きさの服は一つもない。でも風になびく淡い色の服はどれも朝子の身体とぴったり同じサイズをしていた。

『ARUHI アワード2022』10月期の優秀作品一覧は こちら  ※ページが切り替わらない場合はオリジナルサイトで再度お試しください

~こんな記事も読まれています~