【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『椅子のあるベランダ』保科 史歩

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた10月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 家具配送業者の若いお兄さんが前を通り過ぎるたびに、夏のいやな湿気を閉じ込めたような臭いが鼻を掠める。組み立て式シングルベッドのパーツと二人掛けのソファを運び込むために、廊下から繋がるワンルームの入り口には緩衝材が巻かれていた。
「嶋田さん、さっき確認してくださいましたよね」
お兄さんと二人一組でパーツを運んでいる中年男性が苛立ったような声をあげる。
「何をですか?」
「ほら、緩衝材付ける前に、部屋の壁に傷がないかとかチェックしてもらわないと困るっていったじゃないっすか。なんかあった時に、こっちの責任になると困るんすよ」
「ああ。確認しました」
朝子は自分をよそに少しずつ組み立てられていく家具を見ながら、手持無沙汰に新居の中を歩き回った。浴室には防カビ煙剤を、部屋にはバルサンを炊いた。洗濯機は水道に繋いだし、電子レンジのアース線処理も行った。これさえあれば生活できる家電類はすべて整ったと言える。
「ベッド、ベランダ側の壁にくっつけちゃっていいっすか」
「あ、ちょっと待ってください。人一人通れるくらい開けて欲しくて」
「嶋田さん、一回こっち来て見てもらっていいっすか。大体この線までとか言ってもらわないと、こっちもどうすればいいかわからないんで」
中年がフローリングの床を足先でトントンとやりながら、顎を引いて朝子を呼びつけた。狭い廊下から部屋を正面に見て右側にベッドの頭が来るように配置する。ベッドの奥にはウォーターサーバーを置きたかったけれど、自分が飲む水に毎月五千円を払う気にもなれず、結局部屋の角には何を置くかを決めないままベッドの土台だけが堂々と鎮座した。
「そこの線で大丈夫です。ここ、ここに合わせてください」
配送業者に指示を出しているとポケットのスマホが震えた。嶋田健吾、弟からだった。
「すみません。外で電話してきます。何かあったら顔出してもらえると助かります」
ワンルームから飛び出し、アパートの共有スペースで電話を取る。四月で大学三年生になる弟から掛かってくる電話など、実家にいる両親の愚痴かお金の無心くらいしかない。
「なに」
「おはよ」
「おはよう」
健吾は妙に陽気で溌剌と話し始める。
「朝ちゃん、今何してるの?まだあの仕事やってるの?運送業の事務みたいな、何だっけ?配送管理みたいな?そうだ、結局今何してるの?家?てことは、あいつもいる?」
五歳年下の弟は朝子のことを朝ちゃんと呼ぶ。今更それを咎める気もないし、咎めたところで治らないことも知っていた。中学三年生で遅めの反抗期に入った健吾の態度を母が容認していた時から、朝子に対する接し方は変わっていない。
「あいつ?」
「あ、仕事か。朝ちゃんの彼氏だよ。ほら、前一回俺も込みで飲み行ったとき、ずっと自分語りしてたやつ。俺、あいつ嫌いなんだよね」
「あったね、そんなこと。で、なんかあった?」
アパートの二階を囲む手すりに寄りかかり、空の低い所を飛んでいく飛行機を眺める。強風をものともせず一定の速度で進んでいく機体はおもちゃのように鮮やかな緑色をしていた。
「ちょっといいっすか。もうすぐソファの運び込みがあって」
新居の扉が開かれると同時に、中年が自分の伝えたいことを好き勝手に話し出す。
「それは後で、あの、今」
スマホのマイク部分を強く手のひらで押さえつけた。
「こっちも次の運び込みの予定があるんすよ。別に今じゃなくてもいいっすけど、ソファの足に保護パッド貼らずに終了とかになるかも」
「じゃあ、ベッドと同じ壁に背を付けて、入口の所から一メートルくらい開けたところに置いておいてもらえれば」
「わかりました」
再び健吾との会話に戻る。
「朝ちゃん、引っ越ししてんの?彼氏は?」
「引っ越ししてないよ。晴彦がソファを買い替えたの。でもあの人今日仕事だから、休みの私が受け取ってる」
「この前、家具一式買い替えたばかりだって言ってなかった?」
「そう。そうだけど、なんか、ソファだけ気に入らなかったみたい」
「めんどくせえ男だよな。ソファなんか一回自分で決めたもの、ぼろくなるまで使えばいいのに。やっぱ俺、苦手だわ。朝ちゃんにあいつは向いてないよ」

~こんな記事も読まれています~