【ARUHI アワード2022 10月期優秀作品】『椅子のあるベランダ』保科 史歩

朝子はたかが一週間、顔を合わせていない晴彦を懐かしく思った。ついこの前まで一緒に過ごしていた記憶が思い出に変わっていくには十分すぎる時間だった。
「そうだね。で、なに?お金でも困ってるの?」
「違うよ。母ちゃんのこと」
「お母さん?なんかあった?」
要領を得ない健吾の会話は遠い昔の家族喧嘩を彷彿させた。両親に不満があった時、健吾はいつも愚痴を零し続けるだけで何か根本的な原因の解決をしようとはしなかった。その愚痴を聞かされ続けた朝子が両親に不満の原因を話し、原因の解消に向けた提案をすると、何故か朝子だけがひどく怒られたのである。彼が言いたいことを探って、その答えを話しやすいように誘導するような会話をすることで、何度痛い目を見ただろう。
「俺、一人暮らししたくてさ。この前、彼女が出来たの。それも結構可愛くて、まじでいい奴なんだけどね。で、母ちゃんに言ったんだけど」
「うん。反対された?」
「まあ。朝ちゃんみたいにはなってほしくないって」
「私みたいに?」
「そう。朝ちゃん、大学卒業してすぐ彼氏と同棲始めたでしょ」
母親は時折、朝子に電話をかけてきては健吾に対する不満を漏らしていた。家に寄りつかなくなった、女子大のよくわからない女にたぶらかされていくらかの借金をしたなど、どれもよくあるような話だった。一方で健吾には朝子の愚痴を言っているらしい。
「そうなんだ」
「うん」
「大変だね」
「そうなんだよ」
朝子には健吾の言いたいことがわかっていた。早く同棲なんかやめて帰ってきてほしいとか、きっとそんなところ。
「でももう今年でハタチになるんだっけ。もう大人なんだから、自分で責任もって何でもやればいいじゃん」
「だよなあ」
「うん」
「ねえ、朝ちゃん」
「なに?」
汗臭いお兄さんと中年男が部屋から慌ただしく出てきたと思えば、下階の入り口に停まったトラックまで駆け足で向かって行く。
「あの彼氏と円満なの?」
「円満って、まあ」
「いやあ、円満っていうか。要するに、結婚するの?」
朝子は睨みつけるように目を凝らして、かなり遠くのスカイツリーを見る。大井町線の中にひっそりと組み込まれている各駅停車以外何も止まらない小さな町の小さなアパートから見える景色なんて限られていた。晴彦と一緒に住んでいた千駄木のマンションの十階からは東京が隅々まで見渡せるような気がしていた。
「うん。結婚する」
「だよなあ。やっぱそうなるよなあ。せめて、朝ちゃんが同棲してなかったらな」
「まあね。まあそういう時期だよ。もうすぐ春だし」
努めて明るい声で言った。朝子が思い描いていた未来を健吾は今も信じてくれている。
「だから、悪いけど頑張ってよ。お母さんもきっとその内、健吾も大人になったって分かってくれるから」
「だといいけどさ」
「大丈夫だよ、きっと。またなんかあったら連絡ちょうだい」
一方的に電話を切って、ジーンズのポケットから潰れた煙草の箱を取り出した。使い捨てライターのコイルを勢いよく親指の腹で擦りつける。

 これから一人、小さなアパートの一室で暮らしていくことが健吾にバレなくてよかったと心底思った。
朝子が十六歳、健吾が十一歳まで、二人で使っていた子供部屋。思春期という思春期がなかった朝子はなんともなしに同室で生活していた時、中学校への進学を前にして健吾が自分一人の部屋を持ちたいと言い出した。納戸や応接室以外の空き部屋がなかった嶋田家では、これからの部屋割りをどうするかという会議が開かれた。そこで下された結論は、父親が自分の仕事部屋を寝室と兼ねることにして、父と母の寝室に朝子と母親が寝る、そして子供部屋は健吾が一人で使うというものだった。
姉だから、という理由であらゆる我慢を強いられることは多々あった。最後に残ったお菓子は必ず健吾に譲り、家族旅行の行き先の決定権は手放した。朝子にとってそれらを受け入れることは当たり前であり苦痛を感じることもなかったのに、子供部屋を明け渡す時だけは違った。泣いて、泣いて、泣き喚いた。高校二年生になろうとしていた女子が大声をあげて抗議した。両親も健吾も、見てはいけないものを見たかのように朝子の泣きじゃくる姿を呆然と見ていた。朝子は自分に与えられた場所が取り上げられたと思った。両親になのか、健吾になのかはわからない。マットレスを変えて父の寝ていたベッドに横たわっても、そこは父のいるべき場所に自分が寝かされているような違和感だけがあった。陽の当たる二階南向きの八畳間からはじき出され行く当てのない朝子に、父が場所を貸してくれているだけだと思っていた。朝子がポスターを貼り付けた子供部屋には、色褪せていない長方形が壁に浮かんでいた。

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