【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『僕と妻との逆転生活』無糖

 手抜き料理の文字に指が止まる。しかし、内容は見ずに流した。しっかりと家事をしなければ、里子に嘲笑われてしまう気がしたのだ。そんなこと、ありえないのに。
 思考を遮るよう玄関のチャイムが鳴る。恐らくネットスーパーから品物が届いたのだろう。予想通り、運ばれてきたのは箱いっぱいの食品だった。使いやすそうなものを選んだつもりだったが、目の前にしても脳内で調理は始まらない。もどかしさと情けなさで、溜め息が箱の中へと落ちた。悄然としても仕方がないと、再びスマートフォンを起動する。検索ワードに食材名をプラスし、タップした。

 慣れない家事に明け暮れる日々は一ヶ月続いた。コツを掴んできた項目もあり、前より暇を見出だせるようにはなった。かといって無闇に外出もできず、退屈と戯れてしまう。白い壁をスクリーンに、またもぼんやりと里子を描いた。
 もしかしたら、里子も退屈だったかもしれない。いや、娘の相手で時間などなかっただろうか。どちらにせよ、自分の過ごしたいようにはできなかっただろう。幾つもの欲を揉み消しもしただろう。
 毎日、普通に会話をして笑って、十分なコミュニケーションは取れていると勝手に思っていた。妻を大切にできていると己を過大評価していた。怒りや罵倒もほとんどしなかったが、労いだって一度もかけていなかった。今さら、そんな自分が恥ずかしくなった。
 今日、里子が帰ったら真っ先に感謝と謝罪を告げよう。具体的な言葉で、感謝の対象を挙げながら。気恥ずかしさに苛まれそうだが、情けない自分と比べれば豆粒程度のものだろう。
 決意を肯定するようなタイミングで、スマートフォンのアラームが鳴った。画面には“洗濯もの”と表示されている。停止ボタンをタップし、心が揺らぐ前にと景色を切り替えた。
 取り込んだ衣類を畳みながら、夕食のメニューを考える。簡単なものなら幾つか浮かんだが、今日は少しだけランクアップさせたい気分だった。逸る心が、作業を置きざりに検索アプリを起動させる。壁に背を預け、そのままレシピの巡回をはじめた。
 ハッと気付くと、室内の色が変わっていた。明かりを灯していなかったはずが、いつのまにか機能している。それどころか、キッチンから音と香りまで流れてきた。
「うわー! 寝ちゃってた! ごめん里子、交代します!」
 キッチンに立つ里子の元へ、急いで駆け寄り両手を合わせる。どうやら僕は、検索しながら夢に落ちてしまったらしい。ほんの数秒抗った記憶はあるが、本当に一瞬の出来事だった。
「いいよいいよ、一成さんは休んでて」
「いやでも、里子さんは仕事で疲れてるのに」
 里子の手元では、にんじんが見事にみじん切りされている。やはり、僕とは比べ物にならないくらい早くて丁寧だ。この技術を得るのに、どれだけの時間を費やしたのだろうか。
「一成さんもでしょ。慣れない家事を毎日頑張ってくれてるんだもん。だから時々は作らせてよ」
 先手を切るはずが、先に労われ言葉を失う。苦労を知るからこその重みに、感謝が更に根を伸ばした。
「里子さん」
「何? あ、にんじん使っちゃ駄目だった?」
「違う。ありがとう」
「ん? ああ、気にしないで」
「じゃなくて……いや、今日の分もあるんだけどさ……今までずっと、二十年以上ずっとありがとうって言いたくて。あとごめん」
 計画は総崩れし、あまりにも締まりのない言葉になってしまう。当然すぐには伝わらなかったようで、里子はポカンと固まってしまった。華麗な手捌きも、さすがに一時停止している。

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