【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『僕と妻との逆転生活』無糖

 何かが違う――机上の野菜炒めを、スマートフォンの画像と見比べる。レシピ通りに作ったはずが、全然美味しそうじゃない。
 首を傾げていると、玄関から快活な「帰ったよ」が聞こえた。コートをかける音、蛇口を捻る音など、帰宅後の様々なルーティンを物音が描かせる。そろそろかなと見極めたタイミングで、リビングの扉が開いた。
「ただいま一成さん。お弁当美味しかったよ、ありがとう」
「おかえり里子さん、ちょうど今ご飯ができたよ。……相変わらず一品料理だけど」
 妻の里子は、空の弁当箱を片手に不格好な料理を見る。食欲の失せそうな外見にも関わらず、瞳を輝かせた。僕の妻はいつもこうだ。友人の紹介で出会った時から変わらない。結婚前も後も、娘ができても巣立っていっても、変わらず春の日差しのようだった。
「ふふ、嬉しいな。じゃあ私はご飯よそ……手伝わない方がいいんだったね」
「うん、全部僕がや……あっ!」
 僕の声で、流しに行きかけた里子が止まる。気付きの中身を悟ったらしく、小さく笑声をあげた。対照的に僕は、がっくりと肩を落としたが。
「お米炊き忘れてた……本当ごめん……」
「私もよくやったよ。だからそんなに落ち込まないで。一成さん、そういう時は麺にしちゃうのです。いい方法でしょ?」
「なるほど。すぐ茹でます」
 可能な限り待機時間を短縮できるよう、急いでキッチンに走る。だが、乾麺の場所が分からず、結局ヘルプしてしまった。
 約一週間前、僕と妻の立場が逆転した。まず、大規模な感染症の影響で、僕の勤め先が倒産し職を失った。すぐに次を探しはじめたが、まだ見つかっていない。入れ替わるように、専業主婦だった里子の職場復帰が決まった。人員不足を理由に、会社から直々に誘いがあったらしい。よって現在、僕が家事を担当している。まさか、四十を過ぎて経験することになろうとは思ってもみなかった。
 正直、仕事がないのは肩身が狭い。このご時世、仕方ないよと里子は言うが、男の矜持が許してくれなかった。ならせめてと、家事全般を請け負ったと言うわけだ。ただ、意気込みは役立たず、難航している。
 結局、元気のない野菜炒めと、ぬるりとしたうどんを提出した。及第点には遥かに遠い味がしたが、里子はレストランにいるかのように食べてくれた。

 洗濯、ごみ出し、掃除、料理、皿洗い、その他諸々……主夫の仕事は意外と多い。しかも全てが無給という、やる気を削ぐおまけ付きだ。
 安易な僕は、家事なんか簡単だと決めつけていた。仕事が辛いとき、君は楽でいいねと八つ当たりしたこともある。かなり昔の記憶が、今さら蘇っては頭を殴った。その時も里子は穏やかで「いつも頑張ってくれてありがとう」とまで言ってくれたが。
 画面をスクロールしながら唸る。レシピの検索をしたはいいが、どれもが高難度に思えた。メニューの壁や未知の出来事に遭遇する度、里子の優秀さを実感する。家はいつも丁寧に磨かれていたし、食事はバランスも彩りも味も一流だった。他の家事も、気付かないほど自然にこなされていた。しかも、それを一度も誇らなかった。時には手が回っていない日もあったが、頭に残らないほどしかない。そこに子供の世話もあったのだ。想像するだけで大混乱してしまう。現時点で二週間ほどしか体験していないが、苦労を汲み取るには十分すぎる期間だった。

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