「いや浜田さんが悪いわけじゃないし、むしろ怪我なくて良かったですよ」
そう言われて拓也は胸を撫で下ろした。
女性の引越し先は、繁華街にある古い雑居ビルの屋上であった。映画に出て来そうな薄暗いビルの中を通って荷物を運ぶとトタン屋根のプレハブが建っていた。
「面白いから借りちゃった」とのことだった。
このビルには階段が無くヘトヘトとなった。最後の荷物を運び終え、増井がその報告を女性にすると女性が「お兄さん、ずぶ濡れじゃん。これ。あいつのだけど」とTシャツをくれた。ありがたく頂戴をした。
高級な一軒家から、オンボロの家への引越しは、傍目から見ると転落に見えるかもしれない。だが、本人は満足そうであった。1軒目とはまた違う新しい始まりを見ることが出来たと思った。着替えると気持ち良かった。着ていたTシャツを絞ると水分が随分と出た。
最後の3軒目に到着をした頃には夕方になっていた。
雨は止む気配を見せている。
団地の一室に白髪のおじいさんが待っていた。
「少しの荷物だけど悪いね」と確かに荷物は僅かであったので、増井と拓也ともう一人の三人で荷物を運び終えた。冷蔵庫や洋服ダンス、食器棚とほとんどの家具が残った。
「いやー、息子と住むことになっちまってよ」
そう言ったおじいさんは片手に小さな写真立てを握っていた。そこには笑顔のおばあさんが写っていた。
「婆さんが死んじまって一人になったからさ。なあ」
おじいさんはおばあさんに部屋を見せるように写真を掲げた。
荷物を運んだ先は都心のマンションであった。
自由が効かなくなるだと小言を呟きながらも、孫との時間が増えるらしく、新しい生活を楽しみにしているようだった。
一日の仕事を終えて拓也は疲れ切っていた。雨が余計に体力を奪ったと思う。もらったTシャツも再び濡れた。しかし、何だか充実していた。久しぶりの労働のおかげだけでなく、人々の新しい生活の始まりに関わることが出来たからな気がした。今日出会った人々の始まりは、前向きなものだったが、これからは後ろ向きなものもあるだろうなと思った。
「これから」と思いついたことが不思議だった。もしかしたら、この仕事に楽しみを見つけたのかもしれない。
一日が始まった駅に帰ってきた。
拓也がトラックから降りると増井も降りてきた。
「お疲れ様でした。今日分のお給料です」
「ありがとうございます」
給料の入った袋を受け取り、増井が差し出した用紙に受け取りのサインをした。
「浜田さん、もし良かったら明日も来てもらえませんか?」
「へっ?」
「ちゃんとやってくれる方なんで」
誰かに必要とされるのも久しぶりだった。
疲れて、きっと筋肉痛が出るだろう。でも、ここで断って働かなくては、昨日に逆戻りしそうな気がした。
「はい、お願いします」
拓也は友美を驚かせようとケーキを買おうと思った。しかし「また無駄遣い」と言われるのも腹が立つので、給料袋を見せて驚かせようと真っ直ぐ帰宅した。
雨はいつの間にか止んでいた。
すっかり暗くなっていたが、玄関灯は点いておらず、ドアを開けても真っ暗だった。
どこかに出掛けているのかと思い、ダイニングの照明を点けると、何だか部屋が広くなったような気がした。
おでんの鍋は綺麗に片付けられていた。シンクもすっかり乾いている。
部屋の真ん中にあるテーブルに何かが置かれていた。
目を凝らすと友美の文字で「たっくんへ」と書かれた置き手紙であることが分かった。軍手のあとが残り、水分でふやけた指先で取って読んだ。
拓也も新しい生活が始まった。
明日の天気は晴れらしい。
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