「あ、はい」
「どうも、リーダーの増井です。引越し作業は未経験ということですが?」
「はい。でも体力には自信があります」
嘘だ。それでも今日は現金を手に入れたい。
「じゃあ、よろしくお願いします。こっちで」増井に連れられてトラックに向かった。増井を気にして、拓也も傘をささなかった。
トラックの車内で簡単に説明を受けた。
要約すると素人の拓也は助手のさらに助手のような仕事内容で、とにかくバッタの作業着を着用した人物の指示に従えば良く、今日は3軒の家を回るとのことだった。
到着したのは、ごく平凡な住宅地にある一軒家であった。
既に玄関や窓枠に緩衝材が巻かれていた。先発隊が準備を進めていたらしい。
「じゃあ、やりますか。ものを持つ時はしっかり腰を下ろして下さい」
「分かりました」
イボイボ付きの軍手をはめて、拓也は指示を受けながら動き出した。段ボールから始まり、「お兄さん、こっち」と机や洗濯機を運ぶ手伝いを行っているうちにすぐに荷物は積み切った。
雨だか汗だか分からないけれど体が濡れた。
休憩の時、お客さんである50代くらいの夫婦とその娘さんが「どうぞ」とタオルを渡してくれた。お日様の匂いがしそうな柔らかいタオルが気持ち良かった。社会との接点が生まれたようで嬉しかった。
このお客さんの引越し、その娘さんが一人暮らしを始めるためのものだった。
ご両親は嬉しいような、寂しいような顔を浮かべて、運び出される荷物を眺めていた。
一軒家からトラックで二時間ほど走った都心のマンションに到着すると、積み込みの逆再生のように荷物を家へと運び込んだ。新築の建物らしく、とても綺麗で、部屋の数も拓也のアパートより多かった。
荷物を運び終えると、何も無かった部屋に生気が宿ったような気がした。整頓がされていない風景がむしろ生々しくて力強かった。帰り際、女性は、少し赤い目をして、飲み物を勧めてくれた。親元を離れ、新しい暮らしに胸が弾んでいるのか、不安を覚えているのか分からないが、誰かの新しい人生が始まる瞬間に立ち会えたのが嬉しかった。
軽い疲れを覚えながら、2軒目に向かった。
小雨はずっと降っている。トラックに乗る前に軍手を絞ったら雫が落ちた。替えのシャツを持って来れば良かった。
瀟洒な住宅地の一軒家に着いた。暖炉もある広い家だが、お客さんと思しき人物は中年の女性が一人しかいなかった。そして、どこか落ち着かない印象だった
今回は、段ボールへの荷詰から始まった。増井の指示に従って詰めていく。増井は部屋を一瞥しただけで、的確に指示を出す。まさにプロの仕事で凄いと思った。自分よりも若いけれど「成し遂げている」人物だと思った。
「その段ボール運んで。グラスとか入っているから気を付けて」とたまにタメ口になるのがちょっと引っかかるけれど。
皿と聞いて、緊張をしながら腰から段ボールを持ち上げた。「失敗してはいけない」と思うほど緊張が増す。ゆっくりと玄関を出ようとすると男が怒鳴り込んできた。
「何してんだよ!」
女性が出てきて、おずおずとした様子から一変して怒鳴り返した。
「出て行くの! あんたと一緒に暮らすなんてもう無理!」
「そうかよ。勝手にしろ。でも、その黒いシャツも俺の金で買ったろ! 全部置いてけ」
「残念。私は自分のお金しか服は買っていません」
「うるさい!」
男が拳を振り上げたので、拓也は止めようと思わず段ボールから手を離した。段ボールは落下し、ガラスが割れる音がした。だが、構うことなく、男の手を掴んだ。
「何だお前」
「落ち着いて下さいよ」
「俺は落ち着いている!」
男は拓也の手を振り解いた。
「勝手にしろよ」と言って家から出て行った。
「すみません。変な所見せてしまって」
「いえ。あの…」
拓也が段ボールを落としてしまったことを謝ろうとすると増井がやって来た。
「申し訳ありません。荷物を落としてしまいまして」
増井が頭を下げた。
「良いのよ。助けてくれたんだし」
「すみません」と再び増井が頭を下げたので、拓也も頭を下げた。