【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『1+1=』綿 恭平

「うちさ、座敷余ってるんだよ。客人なんて来ないから、ね」

娘の声が震えている。乗り越えなければならないツラさは、娘にも等しく与えられてしまっているのだ。それでも、私を包み込むように気丈にふるまっていた。
「旦那もいいって言ってるから。ね、お願いだから……」

肩に力が込められた。娘の堰き止めていた感情が、雨よりも強くふり出した。だから私は、そっと、でも強く肩に添えられた手を握った。

「お父さんがね、最後に言ってくれたの」

初めてのデートに着馴れないスーツを着て、ベルトを忘れていた。車だって中古の安物で、車内は狭かった。緊張するとすぐに下を向くし、ご飯をよく食べるから日に日に太ってしまった。アパートだってエアコンがついてなくて住みにくかった。赤ちゃんの抱っこも下手糞だった。でも、家族のために一生懸命働いて家を建ててくれた。文句や愚痴を言いながら働いてくれた。
なにより、笑顔が優しかった。

「お前達といれてよかったって」だから、夫が残した家で過ごす。
「お母さん」

「大丈夫よ、女って強いから」

誰にはにかむでもなく、優しく笑うと、ぎゅっと娘が抱きついた。

「さて、アルバムの名前はどうしようかね」

ブツブツと滑舌悪くしゃべる私はどう見えるのだろうか。頭の中では言うことを決めているから、自分ではある程度聞き取れる。でも、最近は耳も悪くなってきたので本当に喋れているかさえも怪しい。
ただ、写真はまとめることができた。

こんなにも写真をため込んでいたとは思わなかったが、5冊のアルバムに1枚も残さずにまとめることができた。写真の束を整理したことで、自分でも断捨離できる気もしてきた。
やはり、何事もはじめの一歩は簡単にすべきだ。

「あら、もうこんな時間」

時計を見ると、約束の時間を少し過ぎていた。

すると、家のチャイムが鳴った。

「お母さーん、聞こえてる? ねぇ、お母さーん」チャイムより大きい娘の声がした。
そんなに叫ばなくても聞こえているよ、と言いたくなる。

「お母さん、元気?」

「えぇ、げんきよ」

「よかった。ほら、みんな来てるから」

そう言うと娘の後ろからすっと孫が顔を出した。娘によく似た顔立ちの子が、いつの間にか母の背丈を抜いていた。にこっとした笑顔に、夫の顔を思い出した。
そして、柔らかな笑みを浮かべた胸には、また一つ大切な存在が抱かれていた。

「おばあちゃん、久しぶり。産まれたよ、赤ちゃん」

「あぁ!おめでとう」

私は手を叩いて喜んだ。

孫が近づいてきて、まだ目も開いていない小さな命を預けてくれた。「落としたらいかんよ」と娘が横やりを入れてくるが、そこまで老いていない。
でもやっぱり重かった。

「あぁ、かわいいねぇ」

小さな命は温かかった。静かにあたりを照らす炎のように、私の胸の中も温めてくれた。名前を聞いたがよく聞き取れなかったので、後で紙に描いてもらおう。そうすれば、絶対
に忘れない。

ひ孫の顔を見て、孫の顔を見て、娘の顔を見た。大きな瞳と小さな鼻、そして見え隠れするえくぼは三人ともそっくりだったが、さすがに娘のしわが増えていた。あんなにお転婆で、あー言えばこー言う子が、立派に娘を育て上げたのかと感慨深く感じた。

カメラのピントが合わなかったときのように、視界が霞む。さっきまで思い出に浸っていたせいだろう。
それに、もう少しで夫に教えてあげられる。私たちの家族のことを。

「お母さん」

気が付くと娘が顔を近づけて、優しく微笑んでいた。

「長生きしてね」

孫に聞かれないように、言ったであろうその言葉は、少し照れくさそうだった。その表情には数学が苦手だったころの面影が少し残っていた。
そうだ、アルバムの名前はこうしよう。

「いちたすいちは」

そうつぶやくと胸に抱いた曾孫が喜んだように叫んだ。私はしっかりと腕に力を入れた。するとシャッター音が耳に残った。はにかんだ娘と孫が、こっそり撮っていたのだ。
私はやわらかい笑みを浮かべた。

もう少しだけ、アルバムの整理を続けよう。

『ARUHI アワード2022』9月期の優秀作品一覧は こちら  ※ページが切り替わらない場合はオリジナルサイトで再度お試しください

~こんな記事も読まれています~