【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『1+1=』綿 恭平

そんな母の小さな攻撃など意にも介さず、娘は車で送っていけと騒いでいる。私は目を合わせることなく「自転車こげば?」と言い放つ。パジャマを乱暴に脱ぎ捨て、ずぼらに制服を着ていく娘は無視。威嚇するような足音を立てながら洗面台を占領して、髪を直していた。
「もう、髪なんて適当にしなさい。遅れるわよ」

忠告に対してはまた返答はない。責任転嫁真っ最中の娘がそこにいた。とうとう私の堪忍袋の緒が切れた。
「あんた、ぜっっったいに結婚できないわ」

「お母さんでもできたんなら誰でもできるでしょ」

一瞥もくれずに、娘はドライヤーで髪の形を整えていた。私は思わず彼女の髪をもじゃもじゃにしてやった。

「お母さん、私この人と結婚する」

大学を出て4年ぶりに帰ってきたと思えば、娘より一回り大きな男の人を連れて帰ってきた。背が高く、細身なところは夫と正反対だったけど、柔和な笑みを浮かべるところは少し似ていた。
「いいでしょ、お母さん」

「いいでしょって……お父さんにも相談してないでしょう」

「だから先にお母さんに言ってるの」

無口そうな娘の彼氏は少し困った顔で笑っている。娘のことだ、無理やり連れてきたことが伺える。それに娘もわかっているのだろう。突然結婚を言い出したところで夫に反対されることを。
だから、夫がいないときに帰ってきて、私に根回しをしようと画策しているのだ。

「私だって急に言われても困るわ。悪い人には見えないけど」

「だったらいいじゃん。ね、彼すごくいい人なの」

「だからって……」

娘の必至な眼が、後の言葉を許さない。こんなにも強引に訴えかけてきたのは、高校の時に隠れて飼っていた子犬を家で飼おうしたとき時以来だ。その後、夜中まで子犬に夢中になってよく寝坊をしていたものだ。
その思い出は、母親としての直感を冴えさせた。

「あんた、まさか」

「ね、お願い」

娘は大事そうにおなかをさすっていた。

「ほら、おばあちゃんだよー」

大きな瞳に無垢な景色を映した孫は、少しふくよかになった娘と手を繋ぎながら照れくさそうにしていた。
最後に会ったのは、確かハイハイができるようになった時だ。もう少し細目に帰ってこいと思うところだが、孫ができてからは律儀に写真を送ってきたり、電話をかけてきたりするようになったので良しとしていた。
「おばあちゃん、よろしくおねがいします」

「こちらこそね。ゆっくりしていってね」

「はいはい、そうしますよー」

「あんたよりこの子のほうがよっぽどしっかりしてるわね」

カエルの子はカエルというが孫には違う種類のカエルになってもらいたい、と切に願った。
「あれ、お父さんは?」

「ちょっと畑に行ってる。大根、食べさせたいんだって」

「せっかく娘と孫が来てるんだから、寿司連れてってよ」

「わたし、だいこんすき」

ブツブツ言う娘と、にこにこしている孫。性格は娘婿に似てくれたんだろう、と一安心しながら私は冷蔵庫に向かった。もう歳なのか、少し歩くだけでも疲れる。そういえば、夫もそんなことを言っていたな。
「大根の前に、プリン買ってあるから食べようね」

「わーい! わたし、ぷりんだいすき」

飛び上がる孫の笑顔が、娘そっくりだったのが笑えた。大きな瞳に、小さな鼻。見え隠れするえくぼ。カエルみたいに体全体で飛び上がるダイナミックさ。この子は、娘がおなかを痛めて産んだ子なんだと実感できた。

娘を見守る娘。その表情が、母親になっていた。

「ところで、急にどうして来たの?」

「喧嘩したのよ、旦那と」

「はあ?なんでよ」

「私のプリン、勝手に食べた」

あんたの分は買ってないからね、と言うと子供のように不機嫌になった。

「お母さん、一緒に住もう」

落ち着いた声で、娘は言った。

葬式の日に雨なんて、夫はつくづくロマンチストな人だった。病院のベットでも、家族みんなに見送られて、私に最後の言葉まで伝えてくれた。
握りしめた夫の手はなかなか冷たくならなかった。

「お母さん」

「……ありがとう。でも大丈夫よ」

肩に添えられた娘の手は、大きかった。いや、私の肩が小さくなったのかもしれない。雨を抄う風で体が冷える。こころなしか、込み上げてくるものも引っ込んでしまい、打ち
付けられる雨音だけが耳の中で響いていた。

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