【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『家族と私と押入れと』幹戸良太

「陽子が本当に行きたいと思うとこや今考えていることがあれば、何でも良いからお父さんに話してごらん」
優しい口調だったがいつもの柔らかいトーンとは少し違っていた。陽子は正面に座る父の顔を見た。そこには普段見ない真剣な表情の父がいた。
少しの沈黙の後、陽子は口を開いた。
「あのね…私…絵を描く仕事に興味があって…その美大とか…絵の勉強ができる大学に行きたいと思ってるの…」
自分の夢を家族に話した事など一度もなかった。話す時も緊張して父の顔を見れず、下を向いたまま話してしまった。それでも父が真剣に聞いてくれているのを肌で感じた。
「陽子の気持ちは分かった。お父さんもお母さんも応援するから、しっかり頑張りなさい。お母さんにはお父さんから話しておくから」
ゆっくり顔を上げると父はいつもの柔らかい表情に戻っていた。

陽子は志望する大学を東京にある美術大学に決めた。押入れに入る回数は減っていき、受験勉強のちょっとした休憩や少し考え事をしたい時に使う程度だった。父は母に進路の事を話してくれたらしく、縁起を担いだ料理が食卓に並ぶ事が多くなり、受験勉強で遅くなった時は必ず夜食を用意してくれた。美穂は電話をリビングでしてくれるようになった。夜中、美穂が寝ている傍で電気スタンドを点けて勉強していても文句を一度も言わなかった。
鬱陶しく感じていた家族のはずが、みんなの優しさが嬉しくてちょっぴり恥ずかしかった。

受験日前日はあまり眠る事が出来ず、何度も目を覚ました。隣では気持ちよさそうに眠る美穂の顔があった。陽子は美穂を起こさないよう静かに押入れを開けて中に入った。ここ一ヶ月入っていなかった押入れの秘密基地。中に入ったが戸は閉めず開けたままの状態で仰向けに寝転んだ。あんなに欲しかった自分一人の空間なのに今は美穂との部屋の方が落ち着くような気がする。天井の星は微かに光っていた。
翌朝、母はベタに朝食に豚カツを作ってくれた。支度を終えて玄関に向かうと3人が笑顔で送り出してくれた。
地方会場となった建物前は受験生で溢れ、陽子は寒さと緊張でガチガチに震えたが、何度も家族の顔を思い出して気持ちを落ち着かせた。

陽子は大学受験に合格した。その日は家族でささやかなお祝いをした。合格に喜んでくれる家族の姿がとても嬉しかった。
団地の周りに降り積もっていた雪が解け始め季節は春を迎えようとしていた。
入学手続きや上京して一人暮らしをするための部屋探し、新生活に必要な家具家電や日用品の買い出しなど目まぐるしい日々が続き、あっという間に時間は過ぎていった。

窓の外を見つめていた陽子は振り返って室内を見回した。がらんとした部屋。もちろんそこには誰も居ないし、生活音も聞こえない。今日からここで一人暮らしが始まる。ポケットに入っていたスマホが鳴った。画面を見ると母からの着信。通話ボタンを押してスマホを耳に当てる。
「もしもし、もう部屋に着いた?」
「うん。今さっき」
「本当に一人で良かったの? 引越しの片付けが落ち着くまではみんなでやった方が良かったと思うけど」
「お父さんもお母さんも急には仕事休めないでしょ、美穂だって予定とか色々あるだろうし」
「そんなこと陽子が心配しなくてもいいのに」
「とにかく大丈夫、引越し業者の人が家具の配置とか色々してくれるから」
「そう。初めての一人暮らしで慣れないこともあるだろうけど、身体に気をつけて、しっかり頑張りなさい」
心配している母の顔が頭に浮かんだ。
「何か困ったことがあれば、お父さんかお母さんに連絡しなさい。それから美穂が寂しくなったらいつでも帰っておいでって」
父と美穂の顔が頭に浮かぶ。柔らかい表情の父、はしゃぐ美穂。鼻の奥がツーンとしてくるがグッと抑える。
「ありがとう、お父さんと美穂にも宜しくね。落ち着いたらまた連絡するから」
電話を切って、再び窓外に目をやると空を覆い尽くしていた雲の切れ目から数本の光が街に降り注いでいた。玄関のチャイムが鳴った。
「引越し業者の者ですが」と外から声が掛かる。
「はーい」
大きく返事をすると陽子は玄関へと駆けて行った。

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