ピンクや黄色など種類が豊富な可愛らしい花だ。何という名前だったか気になったが、女性店員は何やら店の奥で電話をしているようだ。わざわざ呼ぶのも気が引けた。
「それはマーガレットですよ」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこには荷物を抱えた男が立っていた。
「あ、そうなんですね」
「マーガレットも人気ですけど、スズランもプレゼントにオススメですよ。入荷したてで新鮮ですから」
男はにこりと微笑んで、腕に抱えた花を見せてくれた。スズランの花は小さく可憐でとても愛らしかった。
そのとき店の奥から店員が出てきて、「いらっしゃいませ」と声をかけた。男は店員との短いやり取りの後に荷物をすべて運び終えると、どこかへ行ってしまった。
(プレゼントか……)
そういえば、とメッセージアプリを開く。今朝プロフィールを見たときに気が付いたのだが、ハルちゃんは明日が誕生日らしい。折角の機会だ。お祝いと挨拶を兼ねて花を贈るのもいいかもしれない。
司は勧められたスズランを選び、鞄に仕舞える小さな花籠にラッピングしてもらった。会計を頼むとお釣りは七百七十七円だったし、店を出てから信号に一つも引っかからなかった。さらにはその途中、タイミングよく田中から『もうすぐ着く!』というメッセージが届く。
(なんか、今日はいい日かも!)
司はひらりとスカートを翻し、軽い足取りで待ち合わせ場所へと向かった。
向かいの席に座る彼の薬指には、存在を主張するように指輪が輝いている。
「……それで、彼女と結婚することになったんだよね」
さっきまで煩いとばかり思っていた居酒屋の雑音が遠ざかる。田中ははにかむような笑顔を浮かべたまま言葉を続けた。
「やっぱり真淵さんには普段から仲良くしてもらってるし、会社の中では一番に教えたかったんだ」
「……おめでとうございます」
やっとのことで絞り出した声は震えていたと思う。司は取り繕うように笑顔を作った。
「っていうか彼女さんいたんですか? 教えてくださいよー」
「はは、ごめん。経理の遠藤さんいるだろ? あの子なんだけど、恥ずかしいから周りには黙っててって言われてさ」
そのとき田中のスマートフォンが振動する。彼は画面を確認すると、断りを入れてから席を立った。
「……うん、わかった。すぐ行くよ」
少しして、通話を終えたらしい田中は財布を取り出しながら戻ってきた。
「ごめん。彼女の体調が悪いみたいで、先に帰ってもいいかな」
「全然大丈夫ですよ! 早く彼女さんの所に行ってあげてください」
「ありがとう。それじゃあまたね」
「はい!」
田中は慌ただしくその場を立ち去る。その後ろ姿が見えなくなると、司はすっと笑みが消えていくのを感じた。
そのときサラリーマンの一群がどやどやと入ってきて、一気に店内が騒がしくなった。通りかかった男の腕がぶつかり、グラスが傾く。
「あ」という誰かの声と、床を転がるグラスの音。視線を落とせばビールがスカートを濡らしていた。
「お姉ちゃんごめんなあ。大丈夫か?」
気の良さそうなおじさんが心配そうに声を掛けてくる。黙り込んだ司を見て、彼は隣の男を小突いた。
「ほら! お前がぶつかったんだろ。ちゃんと謝んねえと」
「えっ。ごめんな」
「……」
別にこのくらい大したことはない。洗えば済むことだ。それなのに太腿に張り付くスカートがやけに冷たくて、ひどく惨めな気分になる。
「……っ、うぅ……」
ぼろぼろと大粒の雫が頬を伝い落ちる。気が付けば子供みたいに大声を上げて泣いていた。スーツの男たちは慌てた様子で顔を見合わせた。
「ほーら、お前のせいで泣いちゃっただろ」
「ああ……ほんとごめんな」
「お姉ちゃん。このおじさん金持ちだからお礼にいくらでも奢ってくれるよ。……だよなあ?」
「もちろんもちろん!」
その言葉に司は顔を上げた。涙を浮かべたままじっと男の顔を見る。
「……いくらでも奢ってくれるんですか」
その目が妙に据わっていて男は気圧されたが、やがて頷いた。
勢いよくジョッキ一杯を飲み干すと、テーブルに叩きつける。
「……ぷはー!」
気が付けばテーブルは空のグラスでいっぱいになっていた。あちこちに酔いつぶれた男たちが倒れ伏している。
「あれ、みんな寝たんですか? ちょっとー」
眠気覚ましのつもりでジョッキをおじさんの頬に押し付けてみたが、苦しそうな呻き声をあげるばかりだった。
「なんで起きないのー?」
あのあと、司は飲みまくった。酒を覚えたての大学生でもこんな飲み方しないってくらいそれはもう滅茶苦茶に。おじさんたちにも無理やり飲ませたような気がするが、正直あまり覚えていない。
やってきた店員に閉店を告げられ、満身創痍のおじさんと挨拶を交わしてから別れ、司は始発の電車に揺られて家へと帰った。