管理人さんが描いたイラストはいわゆるヘタウマな類のもので、普段のまじめな感じとのギャップがおかしく笑っていたが、気がつけば俺の頬には涙が伝っていた。久しぶりに人の温かさに触れ、俺の中で張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
頑張っているのをそっと見守ってくれている人がいた喜びと、この先どうしたらいいのだろうかという不安とが俺の中でぐちゃぐちゃに混ざり合った。
俺は管理人さんからの手紙をだけを手に部屋に入ると、短い手紙を何度も何度も読みかえした。
翌朝――随分日が上ってから目を覚ました俺は、管理人さんにお礼を言わなければと思い、顔を洗って新しいTシャツを着た。
六階へ行ったエレベーターを待つ時間が惜しくて、階段で一階へと駆けおりる。ひとまずごみ捨て場へ行くが、とっくに回収は終わっていたようで、ごみ捨て場には袋も、管理人さんの姿もない。
管理人室を覗いてみると、中には羊羹色の作業服を着た人が座っているが、いつもの管理人さんではなかった。
「すみません、いつもの方は」
「しばらく休みなので代わりに入っています」
「お休み。えっと、いつ戻られるんですか?」
「私も会社から言われて、急遽こちらへ来ることになったので分かりかねます」
初めて見る管理人さんは機械のようにすらすらと答えた。少し怒ったような表情をしており、もしかしたら俺以外の住人に同じ質問を何回もされたのかもしれないと思った。とはいえ、いつもの管理人さんにお礼を言えないのは困る。体調を崩してしまったのだろうか。しばらくお休みと言いつつ、もう会えなかったらどうしよう、と暗い気持ちになる。
「何、あんた鶴ちゃんに用があるの?」
部屋へ引き返そうとすると、エントランスの方から歩いてきた厚化粧のおばちゃんに声をかけられた。不自然なくらい引き上げられたアイラインとむわっとキツい香水の香りに圧倒され、思わず後ずさりする。
「鶴ちゃん……」
「管理人の、鶴岡さん」
「あ、ああ。そうです、そうです」
管理人さん、鶴岡さんっていうのか。心の中でつぶやく。そういえば、今まで名前を知らなかった。
「鶴ちゃんなら来週、帰ってくるよ」
「そうなんですか」
「何、あんた心配してんの? お孫ちゃんが産まれて会いにいってんだよ」
「それは、よかった」
俺の中に安堵が広がる。おばちゃんは「赤ん坊はいいよねぇ。会える時に会っとかないとねぇ」と歌うように言いながら去っていった。
おばちゃんの雰囲気に驚いていた俺だったが、強烈な香水のにおいと、時々エレベーター内に残っている香りが同じだということに俺は気づいて、なるほど、と一人納得していた。どこかで嗅いだことのある香りだと思ったら、エレベーターの残り香だったのか。
初対面の俺を「あんた」と呼んでくるおばちゃんは、間違いなく苦手なタイプだったが、管理人さんが戻ってくる日も分かったし、エレベーターの残り香の正体が思いもかけず判明したことには難しい問題を解けた時のような、妙な清々しさがあった。
残り香の正体と共に分かったことがもう一つある。
手紙に描かれていた細長い鳥みたいなのが鶴だったということだ。鶴岡さんの「鶴」。鶴ちゃんの「鶴」。たぶん、というか、きっと、そうだ。
早く鶴岡さんに会いたかった。新聞の件についてちゃんとお礼を伝えなくてはいけない。
何となくだが、鶴岡さんと会えたら、もういっぺん就活を頑張れるような気がしていた。いくら自己分析を重ねても本当にやりたい仕事なんてさっぱり分からなかったが、鶴岡さんみたいな年の取り方をして、人と適切な距離感を保てる大人になれたらいいなという思いだけは、俺の中に確かにあったから。
『ARUHI アワード2022』8月期の優秀作品一覧は こちら ※ページが切り替わらない場合はオリジナルサイトで再度お試しください