【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『まえへ』室市雅則

 蜘蛛の食事は購入したが、自分自身が今日はまだ何も食べていないことに気が付いた。初めて一緒に食事を共にするのだから、少し豪華にしようかとスーパーに立ち寄ってパックの握り寿司と缶ビールを購入した。通常ならば半額になった時しか寿司は買わないが、今日くらい贅沢をしても良いだろう。

「ただいま」
返事はないが、蜘蛛には届いているかもしれないと考えることは嬉しかった。
天井の隅を見ると相変わらず巣が張ってある。しかし、蜘蛛がいない。どうしたのだ。見切りをつけて家から出てしまったのだろうか。
 蜘蛛よ、お前もか。
 せっかく家族を得たと思ったのに。
 気力が無くなり、万年床に餌のパックとスーパーのレジ袋を握ったまま寝転んだ。
 煤けた天井が滲んで見える。どこかにいないだろうかと目だけを動かすと天井に点のように色が違う所を見つけた。そして、それが動いた。
 立ち上がって、よく見ると蜘蛛だった。
「良かった」
様子を窺っていると蜘蛛がいそいそと自分の巣へと戻って行った。
「よし、ご飯にしよう」
 イトミミズパックからイトミミズが固まっているブロックを一つ取り出し、それを小さく割って、慎重に蜘蛛の巣に貼り付けた。すると蜘蛛がイトミミズに近づき、食べ始めた。
「良かった。美味しいかい?」
 ひと安心し、自分の食事に取り掛かった。ビールを開けて、寿司を摘み、蜘蛛を眺める。とても有意義な時間に思えた。
 彼女は今頃、三人で食事でもしているのだろうか。どんな話をするのだろう。子供が主役の話だろうか。自分も子供だったのに想像がつかない。
 自分が親として話す時は来るのだろうか。それとも数十年後もこのままで、この家に一人でいて、テレビを相手にパックの寿司で一杯飲んでいるのだろうか。
 このままではきっと先は曇っているような気はしているけれど。
蜘蛛を見やるとまだ食べていた。

 自分の食事を終えると横になってパソコンを広げた。動画でも見ながらのんびりするつもりだ。
 キーボードに手を置こうとすると、滑るように蜘蛛が降りてきた。この二日間で最も接近をしている。指先でそっと触れてみる。綿毛に触れているような優しい感触。
 細長い足を動かして、キーボードの真ん中付近に移動した。
 動きを止めて、一本の細い脚を上下に動かした。まるで何かを伝えようとしているように見えた。
 脚先を見ると「ま」を示している。
「ま」
 口にしたそれを蜘蛛は認識したのか、左斜めに移動して、再び脚を上下させた。
「え」
 それを聞いた蜘蛛は、そのまま真っ直ぐ右に横に動いて、止まると脚を上下させた。
「へ」
蜘蛛が再び「ま」に戻って、「え」、「へ」と動いた。
「ま・え・へ?」
 蜘蛛を見ると前の二本の脚を顔の前に上げて丸を作った。そして、片手を下げ、残っていたもう一本の脚を左右に振ると、さっとどこかに行ってしまった。
 もうすっかり蜘蛛の姿は見当たらない。家族はいなくなった。
「まえへ、前へ」

(了)

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