男と女は交互に答えるがその声は交わることがなく波音に紛れていく。
海の中には数えきれないほどの魚が泳いでいる。命が溢れかえり、死が溶け込んでいる。
男は海に漂う月まで泳いでいきたいと思うが、実際は思うだけで行動に移す勇気がない。
女は波が月を浜辺まで運んでくれないかと見ているが月は近づいてこない。
月は揺れている。月は見えない太陽の光を受けて輝いている。自らあらん限りの力を振り絞って光を放っているかのように輝いている。
魚が月に向って飛び跳ねて、受月の最も薄くしずんだ場所に入っていく。何千何万という魚が一斉に海から飛びあがり、月に飛び込んでいく。何千何万という種類の魚が狂喜乱舞している。月の光で魚の鱗は輝いて星が密集しているように見える。魚が飛び込めば飛び込むほど月は輝きを増していく。
月に飛び込めない青いクジラが月の近くで潮を吹いている。山のような巨大なタコが月の底にへばりつこうとするが滑って何度も落ちている。遠くを貨物船が気づきもせず悠々と通り過ぎていく。海鳥の群が月の真上を飛んでいるが、月には降りようとはせず、旋回しながら様子を伺っている。
「現実のことだろうか」
男は戸惑いながら汗を拭う。
砂浜まで駆けていったふたりは自分の気が確かなことを確かめるように相手の顔を見る。そこでようやく見つめ合うことができたことに気づくが、ふたりとも気づいたことに気づいていないふりをする。
「現実でも現実でなくても、私たちふたりが同じものを見ているのは確かなことよ」
女は冷静さを装いながら答える。
「あの月の舟に乗ったらどこに行けるんだろう」
「どこに行きたいの。あなたはこの街で暮らす決心をしたんじゃないの。だったらあの月の舟に乗っては駄目よ」
「君はあの舟に乗るつもりなんだね」
「私は乗る。乗って、どこにたどり着けるのか知りたいと思う。それはもしかしたら、どこでもなく今いるこの場所かもしれないし、あなたが新しく暮らす家かもしれない。月の舟に運命を託してみたいと思うわ」
「僕は待っているよ。ふたたび君が僕のいる場所に現れてくれることを信じて、ずっと」
女は潤ませた目を閉じながら首をふると、服を着たまま海に走っていく。そしてそのまま海の中に入っていって、腰から下が海に隠れたころから泳ぎだす。振り返ることなく月の舟にむかって泳いでいく。
待っていたかのような進まない月の舟までたどり着くと、女は両手をあげる。すると月の光が一本に重なってかたまり、その光が舟の中までの道をつくる。女はできた道を歩いて月の舟に入っていく。
光が一瞬、夜空全体を照らして星の瞬きを消したとき、月の舟はゆっくりと動きだす。前後に揺れながら海の遥か先をめざして進んでいく。何処に行くのかわからないが、月はふたたび空に昇ることもなく、遠くに行くほどにその光の塊を小さくしていく。
月の後方から、乗っていた魚が一気に跳ねて海に戻っていく。何千何万という魚が弓を描きながら海に帰っていく。
魚が海に飛び込んだ際にできる水しぶきはそのまま空に昇って星になる。気づかないほど小さな星になって、気づかないほど小さな光を放ちながら昇っていく。
男は海辺にひとりで立って月のない星だらけの空を見上げている。月が残していった光は海面を黄金に輝かせ、ときどき思い出したように空にむかって垂直に魚が跳ねている。男は女の名前を叫ぶが、声は戻ってくることもなく海にのまれていく。
もっと早く告白すれば良かった。亡くなることがわかっていたら、もっとふたりの時間を大切にすればよかった。
明日からはこの地での暮らしが始まる。ふたりではじめたかった新しい生活を、ひとりではじめなければならない。
男は握りしめた拳を砂浜に打下ろす。拳は砂にめり込んでいく。何度も何度も拳を砂にぶつける。わずかな震動に反応するように海から魚が跳ねている。海に白波がはしる。
「君がいなくても精一杯生きていくよ。僕の新しい生活を遠くから見ていてくれ」
戻ってこない月に向かって、男は涙を拭いながら繰りかえし、叫ぶ。うっすらと遠くの水平線が光を溜めて膨らんでくる。朝日が昇ろうとしている。
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