【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『月の舟』吉岡 幸一


 公園の側にある海水浴場の浜辺に打ち寄せる波音が、聞こえてくればくるほど静けさを際立たせている。遠浅にもかかわらず、ときどき荒い波音が響いて、ふたりの沈黙を力ずくで破ろうと試みている。
「ここで会えるなんて思ってもみなかったよ」
 先に沈黙を破ったのは男であったが、破ったといってもそれは針の穴ほどの小さな穴にしか過ぎない。
「この最後の時間にあなたがここにいたからきたの。あわただしい都会で最後に会うよりも、ここで会えてよかったわ」
 女はほほ笑みを浮かべて答える。
「なあ、一緒に実家に行かないか。父さんも母さんも亡くなって、今は家があるだけだけど、自然も豊かだしきっと気にいってくれるよ。この土地ならふたりで幸せな生活が送れると思うんだ」
「どうしてまっすぐ実家にいかないで、この公園に寄ったの。すぐに行けばよかったのに」
「君が夜の海が好きだったことを思いだしてね。ここにくればなんとなく会えるような気がしたんだ。来たら、ほんとうに会うことができた……」
「会えたね、……会いにきたよ」
 女は悲しそうに目を伏せながら溜息をつくと、黒い髪の毛の先が透けていき、毛先から光の粒がぽろぽろとこぼれ落ちていく。光の粒は足元の台に落ちると、弾けて夜の底に消えていく。
「ごめん」
 男は鼻をすすりながら謝ると、夜の空気を飲み込んで温めてから吐きだす。
「謝らないで。謝らなくてはいけないのは私のほうだから……」
 女は夜空に溶け込むような聞き取りにくい声でいうと、男に向って手を伸ばすが、男が手を伸ばしてくる前に引っ込めてしまう。
「いまさらなんだけど、遅すぎることはわかっているんだけど。それでも……」
 男はうまく言い出せないようで、伸ばしかえた手を見つめた後で、自分の右頬を叩いて息を整える。
「大事な話をしたいのね。聞いてあげる」
 女は憂鬱な表情を隠しながら身構える。
「僕と結婚をしてほしいんだ。一緒にこの街で暮らさないか」
 男は一気に捲したてるように喋るが、はじめから答えがわかっているようで声は力がなく霞んでいる。
「聞き間違いかしら。それとも言い間違い。だってそれってプロポーズでしょう。私はてっきり、さよならを言ってくれると思っていた。結婚なんて無理でしょう。会うことだって難しい。せめて七夕の織り姫と彦星みたいに年に一回会えたらいいんだけど、それだって無理よ。あなたには私のいない新しい生活をはじめて幸せになってほしい。それを伝えたかったの。私はあなたを幸せにすることができなかった。どんなに幸せにしたいと願っていたとしても……」
 女は瞳を潤ませながら言う。
「わかってる。無茶なのは百も承知だよ。いまさらプロポーズなんてしても意味がないことくらい理解している」
「ごめんなさい。あなたを苦しめるつもりはないの」
「僕も君のそばに行きたいよ」
「私もあなたの側にいたかった。でも……」
 女は首を横にふりながら答える。
「僕はどうしても君を失いたくないんだ。たとえ狂人と罵られても、それでも君と結婚したいと思っている」
 男はズボンの後ろのポケットから指輪の入ったケースを取り出すと、女に向かってまっすぐに差しだす。
 女は男の震える手元をじっと見たまま手を伸ばさない。
「私はお別れを言いにきたの。あなたとの最後の時間をこの場所で月を眺めながら過ごすつもりだったの。……なのに、どうしてあなたは結婚をしたいなんて言うの。さようなら、と明るく言ってくれないの」
 涙がいっぱいに溜まった女の瞳から涙が一筋流れ落ちていく。月の光を溜めた光の筋が頬をつたっていく。
 男は「ごめん」と謝ると、伸ばしていた手を引っ込めて、ふたたび指輪の入ったケースをズボンの後ろポケットにしまう。
 男には次の言葉が出てこない。女は次の言葉を待っている。ふたりは見つめ合うが距離を縮めることができない。
 女の影がゆっくりと薄く長く伸びているのに気がついた男は空を見上げる。すると、空にはり付いていた月が、左右に揺れながら落下してきている。まるで木の葉が樹の枝から落ちてくるようにふわりふわりと海に向かって下降している。
 思わず男が月を指さすと、女も空を見あげて軽く詰まるような声をあげる。薄く伸びた雲を割りながら月は近くの星をはじき飛ばして海を目指している。
 月は海に落ちるが、沈むことはなく、ゴンドラのようになって浮かんでいる。波に揺れながら前後を上下に揺らしている。
「月が海に落ちたね」
「月が海に浮かんでいるね」
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