「あー、すみませーん」
「いえ」
間延びした声で謝罪する男は、父親だろうか。
「あ、僕、お父さんじゃないです。この子、妹の子どもだから、僕の甥っ子」
こちらの考えを見透かしたかのような言葉。小説に出てくる探偵みたいなその鋭さにひるむ。にこにこと細められた目は胡散臭さがにじみ出ていて、警戒心がむくむくと芽生えてくる。
「不審者じゃないですって。マジで僕の甥で、名前は瑛士。妹、シングルマザーで、瑛士が夏休み中は大変そうだから、僕が休みの日には預かってるんですよ。でも、珍しいな。瑛士はとても人見知りなんです。自分から知らない大人に話しかけるなんて今までなかったのに。あなた、子どもに好かれるんですか?」
「身近に子どもなんていませんから、好かれるかどうかは何とも……」
「お兄ちゃん、絵を描く人なの?」
もごもごと言葉を濁すと瑛士くんがこちらを見上げて、話に割り込んできた。本当に人見知りなのだろうか。彼の瞳が太陽光の下、きらきらと輝いている。スケッチブックを指さしているから、俺に興味を持ったというよりも絵に惹かれているようだ。
「いや、今日はたまたまだよ」
「いっくんもとっても絵が上手なんだよ」
いっくん? 瑛士くんが男の顔を見上げたから、おそらく男性のあだ名だろう。随分なついていそうな様子から、休みの日には預かっているというのは本当だとわかった。
「そうなんですよ、僕も絵を描きます」
「俺も描きたいなあ」
瑛士くんがベンチに座って、地面に届かない足をバタバタさせながら呟いた。俺がスケッチブックを一枚千切って色鉛筆のセットを渡してあげると、瑛士くんの顔色がパッと明るくなった。
「今日たまたま絵を描いている、というのはどういうことなんですか」
お休みってことなの、と尋ねる男性は、ぐいぐいと俺の顔を覗き込んでくる。初対面なのに遠慮がないなあ、と再び警戒心を抱く。こんな不躾な人に正直に話す必要もないのだろうが、俺の口はいつの間にか動いていた。見知らぬ人に事情を話してしまいたくなるほど、仕事を辞めて無職になったことは心細かった。そのことにようやく気がついた。
「仕事、昨日でやめちゃって……絵を描くのが好きだったことを思い出して、ちょっとスケッチしてみようかなって。昔は画家になりたいとか言ってたんですけど、いくら美大を出たからって叶うわけもなく」
言葉が尻すぼみになっていく。思わず苦笑が漏れた俺とは対照的に、男性の表情は変わらなかった。
「挑戦、しなかったんでしょ?」
無表情だった彼の唇の端が持ち上がって不敵な笑みを浮かべた。その表情に背筋がひやりとした。やっぱり、探偵みたいにこちらの心情を言い当ててくる。図星を指されて彼から顔をそむけた。
「そう、かもしれませんね。まあ、今からっていうのは遅すぎるし。もう昔の話なんで諦めてますけど」
挑発的な物言いにはかちんと来たが、こらえる。鼻歌を歌いながら色鉛筆を動かす瑛士くんの前では不機嫌な対応を取ることもできない。
「僕が教室を開いたのは、五年前の三十歳のときです」
「え? 教室?」
話の先が見えなくて、ポカンとする。
「君、今何歳? 二十代でしょ? 何事も遅すぎるなんてこと、ないですよ。まだまだ挑戦できる」
遅すぎるなんてことない。そんな言葉、ただの綺麗事だ。挑戦した人の中で、さらに成功した人だけが語れる、非現実的な世界。目の前の男性は俺と違って何事かを成し遂げた人物なのだということがわかった。男性の言葉を反芻している間に、彼は持っていた鞄にごそごそと手を突っ込んだ。すっと差し出されたのは名刺だった。
「僕、絵画教室を運営している奥本一成です。大人とか、美大を目指す高校生とかに向けた教室を開いていたんだけど、子どもにも通ってほしいなって思って、指導者になってくれる人を探していたんだ。何人か集まってきたけど、もう一人ほしいって思っていたところでさ、君、絵を描くの好きなんだよね? 子どもにもなつかれるようだし、良かったら講師としてうちに来てくれない?」
「え、でも、人に教えるなんてしたことないし……無理ですよ」
「無理?」