【ARUHI アワード2022 7月期優秀作品】『新しい色彩』浅羽メグ

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた7月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 今日から何をして過ごそうか、と仕事を辞めた俺は天井を見つめた。
 文房具メーカーの営業職を三年間続けたが、どうやらあの会社は俺の肌には合わなかったらしい。残業の多かった労働環境をどうにか改善しようと働きかけていたものの、一人で奮闘しても無駄だった。頭の固い上司たちは「柔軟な思考力は駒井くんの良さだけど、今までのやり方は変えられない。伝統だよ」の一点張りで、立ち向かった俺の心は折れてしまった。営業成績の良かった俺に、せめて同期は賛同してくれるんじゃないかと思っていたが甘かったようだ。上司が帰るまで部下は帰ることができない、という謎なルールがみんなを縛り付けていて、みんな上司を怖がった。同期は信頼してくれていると思っていたのに、誰一人ついてきてくれないのは屈辱だった。こんな会社やめてやる、と自棄になりながら退職願いを提出したが、上司はそんな俺に勝ち誇ったような視線を投げるだけだった。
 ハローワークに行くべきなんだろうが、暑さのせいか脳みそは炎天下で食べるアイスのように溶けきって機能してくれない。まだまだ早朝なのに夏の空気は重たく体にまとわりつくし、息苦しい。なんであんな会社に就職しちゃったんだろうな、と就活当時を振り返る。文房具が好きだったからだ、というよりも絵を描くのが好きだった。休憩時間に四コマ漫画をちまちまと描いているような小学生だった。中学、高校は美術部で、その後美術大学に進学した。確かあの頃は画家になりたいとか、非現実的な、夢のような話を周りにしていたっけ。画家として食っていけるほどの才能がないことは、大学に進学してから痛感した。
 画家でなくてもいい、せめて自分の絵の技術を生かせる仕事に就きたいと思い上がっていた頃が恥ずかしい。頭をかきながら起き上がる。でも、どうせ暇なんだし、気分転換に絵を描きに外に出かけてみるか。

 外に出てわかったことは、世の中の大半の大人は、この時間は働いているということだ。目の前の男性はこんな暑さの中、きっちりとネクタイを締めているし、自転車に乗っている女性は時間を気にしているのか腕時計を見て懸命に足を動かしている。
 のんびりと過ごしている大人が世の中に俺一人だけになった気がして足元に視線を落とすと、薄汚れた白いスニーカーが目に入った。もはや白とは呼べないグレーがかった色だ。休日も出勤していた俺は、スーツと革靴しか必要ない生活を送っていた。スニーカーがいつの間にか埃をかぶっていたことにも気づかないほど、余裕のない生活を送っていたんだ。あては全くないけど、早く就職先を決めて革靴の生活に戻らないと。目線を上げると歩行者信号が青の点滅を繰り返していて、慌てて横断歩道を渡った。
 横断歩道を渡った先に、大きな公園があった。やっぱりその場にいるのは小さな子どもたちやその母親と思われる女性ばかりで、若い男一人というのは居心地が悪かった。それでも持ってきたスケッチブックを広げる。公園を見守るようにそびえたつ、大きなイチョウの木があった。今の季節、濃い緑の葉を風にそよがせている。その濃緑の空気を鼻からいっぱい吸い込んで、スケッチブックに鉛筆を走らせた。
 どれくらいの時間、手を動かしていただろうか。日陰にいるのに額には汗が滲んでいて、何か飲み物でも買いに行こうか、と思ったときだった。
「お兄ちゃん、お絵かき上手!」
「え?」
 ベンチに座り込んで、一人の男の子が俺の手元を覗き込んでいた。まだ小学校低学年くらいだろうか。そうか、学校は夏休みの時季だ。一人なのだろうか、と辺りを見回すと、のんびりとこちらに歩いてくる男がいた。

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