「別に。ライターはほら、場所を選ばないから」
冗談じゃない。
少なくとも「木漏れ日ライター」は場所を選ぶのだ。この町はずっと曇り。木漏れ日なんてほとんどない!自分の軽率さにほとほと嫌気がさす。なんだか笑えてくる。
でも元々、やけっぱちで名乗りだした肩書きだ。東京ですら需要がなかった。きっぱり廃業し、地元で再就職しよう。
雲の奥にいる、姿の見えないお日様に向かって私は誓った。
「うちで、連載しない?」
廃業宣言をした翌日、心配してくれた友人から「木漏れ日ライター」の仕事が舞い込んだ。なんだか皮肉もんだなあ、と上の空で聞いていたが、次の言葉で耳を疑う。
「ほら、今うちの地方、木漏れ日ブームでしょう?」
「ううん?」
「だから、木漏れ日ブーム。SNSで繋がった同好会もけっこう増えてきたの。それで、うちの雑誌の編集長、つってもまあ旦那なんだけど、あんたのこと話したら、是非やってくれないかって」
事態が全く飲み込めない。木漏れ日ブームとは。同好会とは。あと、そんなことより、結婚してたんだ。言ってくれてもいいのに。結婚式だって。まあ気を遣ってくれていたんだろうけどさ。
いや、今はそこじゃない。
「ごめん、木漏れ日ブームって?」
「はあ?なんであんたが知らないの?」
電話の向こうで一生涯分呆れた末になぜか声まで掠れてしまった友人が説明するには、木漏れ日を愛でる同好会がアクティヴシニア層を中心に増えているらしい。余剰エネルギーの捌け口にしては随分としぶいじゃないか。
「でもうちに木漏れ日なんかないじゃん」
「だから愛でるんでしょう!」
ただでさえ貴重な陽光を愛でるのは素人の考えで、木々の葉に遮られて生じる木漏れ日に趣を見出すことこそ、粋(いいね!)なのだという。
「敢えて」が生活にある人たちは今の私にとって、貴族にしか思えない。氷河期世代にとってそんな貴族のお遊びを取材すること自体、なんだか心の奥がむずかゆくなるんだけど、その貴族の皆様がこうして、木漏れ日ライターという謎の肩書きに仕事をくれようとしているのだから、ここはしっかり苦虫を噛まなくては。
半年が経過した。
木漏れ日のない町で木漏れ日のライターとして、それなりに暮らせるようになっていた。もちろん、実家暮らしではある。
友人から電話があった翌日。
私はこれまで撮り溜めてきた木漏れ日のデータをまるまる友達の夫であり、タウン誌編集長であり、初対面の男性、に渡した。えらく喜んでくれてわざわざ、ウェブ媒体ではあるが私担当の特設ページまで用意してくれたのだ。
その特設ページで私は、毎週この町で発見した「素敵な木漏れ日」を一つピックアップし、その美しさ、しずる感、地面の具合、撮影時間などを好き勝手に寸評し始めた。
「しずる感」とは光が枝葉と枝葉の間をすり抜けて投射される際に生じる光の濃淡、目の細かさ、立体感、これらの要素をまとめたものだ。
さらに上映される地面も重要だ。
木漏れ日とは本来、中学生時代に挫折したサリンジャー作品を久々に読んで見ようかな、なんて午後を彩るためにある。その人たちの裾を泥濘が汚すようじゃダメ。
だからこそ水はけが良く、ほど良く草が茂っている地面が好まれる。
この「木漏れ日観」を踏まえながら、小学校のグラウンドから個人の邸宅まで、数打ちゃ当たれと、写真付きて次々に紹介していく。
こんな酔狂なレビュー記事が今やちょっとしたPV数を稼いでいるのだから、世間の方がよっぽど酔狂だと思う。
もちろん、いい感じの木漏れ日を発見するのには時間と足が必要だ。何度も言っている通り、まず日照時間が少ない。それでいて、素敵な木漏れ日を上映する木と出会わなくてはならない。晴れてから探すのでは間に合わないと踏んだ私は、友人に協力してもらい、しずる感溢れる木漏れ日と出会えそうなスポットに目星をつけ、晴れた瞬間に直行するようにしていた。