【ARUHIアワード12月期優秀作品】『金魚を放す』金井博文

「この子預かって」
 突然の言葉は自分の中でうまく処理できず、私は金魚のように口をパクパクさせてしまっていたのかもしれない。
「この子預かって、夕方まででいいからお願い」
 この女性は人違いをしているのかもしれないと想像した。そうだそうに違いない。そうじゃないとこのまるで兄弟への距離感で喋ってくるのはあまりにも理不尽だ。ただ隣人だと言うだけで、こんな中年男に幼い子供を預けるなんてあまりにも不条理だ。
「急いでいるから」
 女は矢継ぎ早に言ってくる。
「えっと・・」
「もう行かなきゃだから。じゃ」
 こっちに言葉を挟ませるタイミングをその女は一切与えてくれなかった。そして相手の言葉をねじ伏せられるほど言葉が得意ではない私は、口をパクパクさせるだけが精いっぱいだった。そんな私をしり目に女はアパートの階段を響かせながら降りて行った。
 あまりにも突然の展開にただただ立ち尽くしていると足元から視線を感じ下を見た。女の子が不安そうに私を見ていた。幼稚園ぐらいだろうか。綺麗な顔立ちをした子だった。じっとその子と目が合ったまま私は金縛りにあったように動けなかった。兄弟もいない友達もいない私は子供の取り扱い方を知らないのだ。
 こういうのは警察に届けた方がいいのか。そもそもこんな見ず知らずの中年男に幼子を託すのは虐待ではないのかと様々な不安を頭の中をよぎる。この幼子と何とかしてコミュニケーションを取らなければと焦ったまま時が過ぎる。
「なにこれ?」
 硬直した空間を破ってくれたのは幼子の方からだった。
 幼子は私が持ったままでいるコンビニ袋を不審げに見ている。とりあえずの会話のタネになるかしれないと思いコンビニ袋の口を開けて幼子にコンビニ袋の中を見せた。
「きんぎょ。かわいい」
 幼子は初めて笑顔を見せた。
「金ちゃんっていいます」
 幼子と喋る時はどういう語尾が無難なのか分からず敬語まじりになる。
「きんちゃん。なんでふくろにはいってんの」
 幼子はもう金魚にしか。興味津々だ。
「・・これから川に放そうと思って」
 なにか無言になるのが気まずくて、とりあえず言葉を発した。
「ちかくにあるの?」
 引っ越ししてきたばかりだからこの辺りの事はまだ知らないんだろう。
「歩いて5分ぐらいの所にあります」
「いっしょにいっていい?」
 幼子のわりにしっかりとした喋り方をする子だ。
「・・いいですよ」
 おぼつかない言葉使いのままの私と幼子はそれでもなんとかコミュニケーションを取り続けた。
 そして気が付くと、片手に金ちゃんの入ったコンビニ袋を持ちもう片手には幼子の手を握り、私と幼子は川への道を歩いていた。
 運命は分からない。まさか自分がこんな日曜日の午前中という平和な時間に、太陽の下を幼子と手をつないで歩いているなんて想像だにしなかった。もしかしてあるかもしれなかった私のもう一つの人生を白昼夢で見ているような気分になった。
 夏の終わりの川べりには、散歩している人たちやぼんやりと川を眺めている人たちがちらほらといた。みんな悩みなど何一つなさそうな顔で日常を満喫している。
 今の私の姿も周りから見れば普通の親子に見えているんだろうか。さっきまで消えてしまいたいと思っていた私が、今はただの幸せそうな親子と認識されているんだろうか。
 さっきから幼子は機嫌よく何かの歌を歌っている。普通、あんなふうに突然母親に置いて行かれたらぐずりそうなものだけど、全くそんなそぶりを見せない。もしかしたらこんな事は今までもしょっちゅうあったのかもしれない。そう思うと少し幼子に同情した。けれど幼子の事だ、いつ不機嫌になるか分からない。これで突然泣き叫びでもされてうろたえている自分を見られたら誘拐犯と間違えられかねない。さっさと金ちゃんを放して家に帰ろう。
~こんな記事も読まれています~