そう言って、私の方へ長い腕を伸ばしかけた時、私の意識が揺らぎ出した。
「どうして、いつも大切な時にこうなるんだろう」
閉じかかった意識の端に残ったのは、温かなオレンジ色のランプの灯りと、緩やかなシャンソンの調べ。そして、分厚い壁が崩れ落ちるような気配。まるで、テレビで観たベルリンの壁みたいに。私は、ゆるゆると時間の河の中へ堕ちていった。
目覚めると、乾いた朝だった。いつものシミの多い天井、いつもの白い壁、いつものベージュ色のカーテン。一瞬安心したものの、慌てて飛び起きた。
ーそんなはずはない。
記憶がエレナさんの家での赤ワインで途切れている。飲み過ぎたのか、でも彼女は私の部屋のあるアパートを知らないはずだ。
チェストの上の赤いランプが点いたままになっていた。スイッチをオフにしてから窓を全開にする。秋のひんやりと澄んだ風が頬を包んだ。手のひらを何度か開いたり閉じたりしてみる。ほんのりとした違和感。自分が自分じゃないみたいな、昨日までの世界がほんの少しだけ回転の角度を変えてしまったような・・そんな気がした。
午後になって落ち着きを取り戻してから、私はエレナさんの店に出向いた。昨夜とんでもない粗相をしでかしたのなら、謝らなくてはと思った。
夏に覚えた近道を通って、商店街の通りへ出る。そこから駅とは反対側へ百メートルほど歩いて和菓子屋さんの隣、のはず。でも、「それいゆ」はなかった。そこは老舗の時計屋さんだった。確か三十年前にも見かけたことのある看板。念のために和菓子屋さんの店員さんに聞くと、首をかしげて言った。
「ええ、お隣はもうずっと前から時計屋さんですよ。ランプ屋さん?この辺では存じないですね」
私は途方に暮れた。何もかもが不整合だ。どこまでが現実でどこまでが夢なのか。部屋に戻ると、ランプはちゃんとチェストの上にあった。エレナさんの店から買ったランプ。手のひらに包むと、出会った頃の春の景色が心に映った。夏の庭の草の匂い、紅茶の香り、エレナさん夫妻の笑顔。何もかもが忽然と消え去ってしまったのか。私は泣いた。何十年ぶりに大声を出して子供のように泣いた。知らない世界にひとり残されてしまった気分だった。もしかしたら、私は、もう死んでしまったのかも知れない。ならば、これは私が望んでいたことではないか。私の頭は、それまでにないほど混乱した。
エレナさんに会いたいと思った。どうしたらいいんだろう。しかし、私にはなす術がなかった。
都心に初雪の降った日だった。建付けの悪い小さな窓の向こうに、白い羽根のような雪を見つけた時、「きれい」と自然に声が出た。自分の声を聞いたのは、とても久しぶりだった。あの秋の日からは、ずっと部屋に閉じこもって、必要最低限にしか外出をしなかった。
―外を歩いてみようかな。
不意にそんなふうに思ってしまったのはなぜだろう。引き出しの奥からマフラーと手袋を取り出して薄いコートを羽織ると、私は雪の街へ出た。
音を吸い取られてしまったように、街は静まり返っていた。歩く人もまばらで、通りのトラックも遠慮がちに走っている。雪の匂いは、生まれ育った東北の街を思い出させた。何でこんなちっぽけな場所に生まれたんだろうって、ずっと思っていた。憧れだった都会での暮らしに疲れて帰ってきても、その街は心を癒してはくれなかった。敗北感と見栄と焦りから適当な気持ちで結婚すると、今度は毎日後悔のため息を溜め込んだ。そうやって、私は何処へ行っても何も受け入れることができずに、敵を作って孤独を深めて行くだけなんだな。いろんな思いがごちゃ混ぜになって、泣き笑いの顔になる。もうそろそろ終止符を打たなくては。
以前に通り慣れた近道は、足跡のないまっさらの白い道だった。ゆっくりと、一歩一歩スタンプを押して行く。
いつのまにか「それいゆ」のあった時計屋さんの前に立っていた。雪のせいかお客さんはいないようだ。と、ガラスのドアの張り紙が目についた。
ー従業員募集。接客業経験の方歓迎。詳しくはお気軽にお尋ねください。
なぜだろう。私は歩き出していた。一秒前まで、この街で働こうなんてことは微塵も考えていなかったのに。紺色の手袋をした右手は、ガラスのドアを思い切り開いて、奥のカウンターへ近づいて行った。
「あの、ドアに貼ってある求人のことでお伺いしたいんですけど」
笑顔の自分がそう話しかけていた。
「ああ、はい、こちらへどうぞ」
主らしき初老の紳士に言われて、ストーブの脇の椅子に座ろうとした時、ふわりとキンモクセイの匂いが鼻をかすめた。
「ARUHIアワード」12月期の優秀作品一覧はこちら
「ARUHIアワード」11月期の優秀作品一覧はこちら
「ARUHIアワード」10月期の優秀作品一覧はこちら
「ARUHIアワード」9月期の優秀作品一覧はこちら
※ページが切り替わらない場合はオリジナルサイトで再度お試しください