【ARUHIアワード12月期優秀作品】『それいゆ』船山直子

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 その小さな店に入ることにしたのは、春の緩い日差しが、背中を押してくれたから。
「それいゆ」と書かれたプレートを、確認するように見つめる。少しだけ勇気を出して真鍮のノブを押すと、ちりりんと澄んだ音がした。椅子に座って画集らしきものをめくっていた銀髪の老婦人が、温かい笑顔で迎えてくれた。
 落ち着いた造りの店内には、色とりどりのガラスのランプが行儀よく並んでいた。どれも素朴で懐かしい感じがするものばかり。
「どうぞ、ごゆっくりご覧くださいね」
会釈をしてから、珍しく物怖じすることもなく店内をひと廻りした後、私は小さな球体のランプを手に取った。深い赤、オレンジ、黄色のモザイクガラス。柔らかな白熱灯の光を受けて、宝石のようにきらめいている。心がきゅんと音を立てる。ずっと昔、一瞬で恋に落ちた時みたいに。
「その色合い、私も大好きなの」
 顔を上げると、こちらを見つめている老婦人と目が合った。深い湖のように澄んだ瞳。映るものすべてに慈しみをもたらすような微笑み。きっと、今まで素敵な人生を送ってきた方なのだろう。なぜだか泣きたいような気持になってしまう。
 老婦人は、とても丁寧にその小さなランプを包んでくれた。
「綺麗な方の所に行けて、このランプは幸せだわ」
そんなひと言に気を良くして、私は質問する。
「このお店は古くからあるんですか?」
「そうね、三十年くらいになるのかしら。平成が始まった夏からよ」
「そうなんですか・・素敵なお店ですね。ずっと気になっていたんです」
「まあ、ありがとう、嬉しいわ。またいらしてくださいね」
満月のようなその笑顔は、私の心を温かく包んでくれた。
 宵闇が濃くなっていた。生まれた街より半月も早く花開いた桜の花びらが、緩やかに薄墨色の風に揺れていた。

 私がこの街に引っ越して来てから、半年ほどになる。けれど実は初めてではない。そう、一度目は短大を卒業して就職した時だから二十歳のとき。夢と希望だけではち切れそうだった日々。都心のホテルでの仕事は、東北の田舎で生まれ育った私には何もかもが新鮮で輝いて見えた。その中でこれから生きて行けるとはなんと幸運なことだろう、と私は神さまに感謝した。
 若い日の夢は儚い。いや、自分を見失った自分が悪いのか。それが運命というものなのか。いつのまにか、こんな大人にはなりたくない、と思っていた以上の大人になってしまった。
 五十歳、昨年離婚、無職、友達も頼れる人もいない。それが今の私の現実だ。もうジタバタすることも辞めた。あがいた分だけ身を沈めてしまうことを知った。全てが手遅れだと思った。結局、自分の人生はこんなもんなんだと受け入れ、笑い飛ばすしかない。そうして、笑った後には死のうと思った。最後に本気で勇気を出すのが死ぬ時だなんてなかなかいいかも・・。
 けれど、その前にひとつどうでもいい冒険をしてみたくなった。あの夢の中を泳いでいた時代を最後にもう一度感じてみたくなったのだ。ほんの一瞬でいい、ひとかけらでいい、あの時代の中で自分の生きた証を見つけたい。

 そろりそろりと昇り始めたかまぼこ形の月が、静かに街を見つめている。大通りから離れた風通りのいい住宅地。私はいつもより軽い足取りで、児童公園の角を曲がった。
 古くて狭いアパートの部屋。昔住んでいた部屋に似せたかったのと、経済的な理由で決めた。小さなチェストの上に、包みを解いた赤いランプを置く。そこだけが静謐な別世界になる。艶めく春の夜、ランプの灯りの中に浸っていると、心がゆっくりと解れてゆくのを感じた。
 それから、私はしばしば「それいゆ」に立ち寄るようになった。人見知りの激しい私にしては珍しいことだ。もうじきこの世界ともおさらばだという思いが、心を開かせたのかも知れない。

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