一年後も二人の気持ちは変わらなかった。そして、父親の気持ちも変わらなかった。だからエレナさんは家を出て駆け落ちすることにした。ピアニストの夢を諦めた青年は、外国人の友人から紹介されたランプ職人を目指すことにした。
ふたりは、工房の近くの狭いアパートで暮らし始めた。エレナさんはフランス語と絵画教室の先生をして家計を支えた。ようやく日本が豊かになり、人々が暮らしを楽しみ始めた頃だった。青年が一人前の職人になると、ふたりはこの街にやって来た。
エレナさんのバースデーディナーに招かれたのは、陽射しが蜂蜜色になり、肌寒い風が吹き始めた日だった。
丁寧に使い込まれたチェスナットのテーブルで、エレナさんの手の込んだ料理を頂いた。どれもこれも優しくて、温かい味がした。梨のシャーベットを食べ終えると、ご主人のピアノでエレナさんがシャンソンを歌った。ヒマワリ色のブラウスを着たエレナさんの胸元には、私が贈ったばかりのベネチアングラスのネックレスが輝いている。
それにしても、エレナさんのシャンソンはとてつもなく上手い。そして、なぜだろう、心地良すぎて眠くなってしまいそうだ。
赤ワインを頂きながら、頬をほんのりと紅く染めたエレナさんに話しかけた。
「本当に素敵なご夫婦ですね、羨ましいです。幸せの秘訣って何でしょう?」
「ありがとう」
ペンダントライトの光が、ネックレスとグラスにまばゆく反射している。
「そうねえ、たくさん、たくさん、贈り合うことかな。色んな想い、アイディア。それと、今を大切に丁寧に生きること。過去でも未来でもなくてね」
そう言って、小さくウィンクした。
「詩子ちゃんは想い出ばかり追いかけていて気付かないみたいだけど、今だってキラキラ輝いているのよ、早く気づいてあげてね」
ふと、花の匂いが流れ込んできたような気がした。キンモクセイ?それにしても瞼が重い、もう開けていられないほど・・。
微かに懐かしい声が聞こえた。「詩子ちゃん」胸が大きく波打つ。ずっと焦がれていた声、何年経っても忘れられない・・。
ふわりと水彩画のような風景が広がった。見覚えがある。そう、二人でドライブした海辺の通りだ。あの人を一番近くに感じた時。陽射しと潮の匂い。このままどこまでも走り続けたいと願った。
それにしても変だ、目を閉じているはずなのになぜ見えるのだろう?そうか、夢か。少し風景が歪んだ。
突然夜の景色に変わった。一面に群青色の空。なのに星がひとつも見えない。
「ごめんね」
そうあの人は言った。それまでに見た中で一番哀しい横顔をしていた。
「幸せにしてあげられなかったね」
「ううん・・大丈夫だから、私」
私は思い切り作り笑いをした。そう。感情を隠すのは昔から得意だった。自分に嘘をついて傷つくよりも、本当のことを言って誰かを傷つける方がずっとずっと怖かった。そして、それが優しさだと思っていた。でも、本当に、それで私はよかったのだろうか。
遠いところから、エレナさんの声が聞こえてきた。
「ねえ、詩子ちゃん、時間なんて色んなふうに流れているものなの。だから言い忘れたことがあるなら、上手に入り込んで伝えてきちゃったらいいのよ。でも、ちゃんとここへ戻って来てね。そして、新しい時間を生きてゆくのよ。三十年越しの憧れの君によろしく」
花の匂いが一層濃くなった。
気づくと、あの人の輪郭が薄れかけていた。なぜだか私は必死になって叫んでいた。
「私、今でもあなたのこと好きです、忘れられません。想い出を変えられないことはわかっています。だから、憶えていなくていいです。ただ、今この瞬間だけ覚えてください」
曖昧な横顔が微かに微笑む。