天気のいい日は、ご主人も一緒に中庭の丸いテーブルでおしゃべりをする。手作りのタルトやマフィンと紅茶の香り、柔らかな風のそよぎ、そしてモクレンの匂い。
「主人が好きなの、ねっ」
白洲次郎とよく似た雰囲気のご主人は、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
また季節が通り過ぎた。一年間、それが自分で決めたリミットだったから、その夏が私にとっての最後の夏だった。妙に感傷的になることもなく、何かを期待することもなく淡々と私はひとりの日々を送っていた。誰にも迷惑をかけることなく、誰にも知られることなく静かにフェイドアウトすることが、残された唯一の希望だった。時折確認するように自分に言葉をかける。
―だいじょうぶ、このままどんどん褪せてゆけばいい。何も考えず何も感じないで、そのまま風と同化すればいいだけ・・。
梅雨が明けたばかりの瑞々しい青空の日。チェリータルトをよそいながらエレナさんが不意に聞いてきた。
「ねえ、詩子さん、もし神様が一度だけある場面に戻してくれるとしたら、どこがいい?」
「う~ん、そうですねえ・・」
私は考えるふりをした。一瞬で決まっているのに。いつだって、それを願っているのに。
「やっぱり、今までで一番輝いていたと思える時代」
「ふうん、それはいつ頃のことなの?」
「二十歳の頃だから、もう三十年も前なんです。短大を卒業して就職したばかりの頃です。初めて大好きな人も出来て・・」
「まあ、いいこと、元旦那様じゃないわよね」
「全然違います」
滑稽なほど、自分の声が強張ったのがわかる。
「へえ、お付き合いしていたの?」
「いえ・・残念ながらそんなんじゃ・・」
「そう・・今でも、とても大切な方なのね」
「はい」
なぜかエレナさんには、するりと話せてしまった。二十歳の時、一方的に恋焦がれた人を未だに忘れられないでいること。そして一方的に離れて生まれた街に戻り、成り行きで結婚をして離婚をした。いつの間にか平成という時代が始まり、終わろうとしている。この三十年は輪郭のある記憶がないこと。そんなふうに、遠い想い出に囚われている自分が不甲斐ないこと。
エレナさんは静かに耳を傾けていたが。深呼吸をするとにっこりと笑顔になった。
「恋はその人だけの、愛しい秘密の物語。詩子さんの恋は、まだつづいているのね」
「・・切ないだけの恋なんて」
「恋は恋、大切な物語よ」
そう言って静かに目を閉じた。
「ただ、想い出にしがみついているだけです」
「それでもいいのよ、空から見たらちゃんと綺麗な絵になっているものよ、人生なんて・・」
庭の細いヒマワリが揺れていた。
「そういえば、「それいゆ」って、太陽の他に、確かヒマワリのこともそう言うんですよね」
エレナさんの瞳が、ぱっとほころぶ。
「まあ、よくご存じね。そうなの、両方の意味を込めてお店の名前にしたのよ」
「ヒマワリがお好きなんですか」
「そう、大好きよ」
それから今度は、エレナさんが話してくれた。
大きな港町の裕福な家で、エレナさんは生まれ育った。大学生の時に友達と出かけたピアノバーで、ピアノを弾いていた青年に一瞬で恋をした。まだ戦後間もない昭和の時代だ。
二人は、時間の許す限り一緒に過ごそうとしたけれど、交際を知ったエレナさんの父親が許さなかった。引き離すために、エレナさんを一年間フランスに留学させる手配をした。
渡仏する前の日、青年はエレナさんに手紙と小さな袋を手渡した。中身はヒマワリの種だった。大好きな花をエレナさんの家の庭に植えて欲しかったから。