【ARUHIアワード12月期優秀作品】『爺ちゃんのエチュード』伊達巻チカ

携帯に保存してきたはずの爺ちゃんのその写真を捜した。母さんにも見せたいし、爺ちゃんの異変を知らせると飛んできた在宅医療のドクターや看護師さんにも見せたいと思った。
「謙也くんたちと最期までしっかりと話したいから、お爺ちゃんは最低限の薬だけにしたいと当初から希望されてました。次の世代にバトンをしっかりと渡したいと、生き様をまるごと見せたいと思われたんでしょう」
とドクターが話してくれた。爺ちゃんなら言いそうだよな、と僕は思い出していた。

「爺ちゃん、さいならの本番の練習って言ったけどさ、爺ちゃんが死ぬときはけっこう強烈だと思うよ。むしろ僕の本番だと思うよ」
と僕は訊いたのだ。それもほんの数ヶ月前に。
「嬉しいことを言ってくれるなあ」
爺ちゃんはもう厳しい顔はしなかった。心臓に水が溜まって、全身の機能がゆっくり鈍くなっていっても、柔和な表情で僕をベッドから見つめていた。
「爺ちゃん、僕は父ちゃんも婆ちゃんも亡くしてるから、よそから見たら練習済みの人間と思われるだろな。けどな、爺ちゃんは特別。ふつうの孫と爺ちゃんの関係よりも濃厚なんだよ。一緒に過ごした時間も、二人で話したことも、思い出せる顔も声も圧倒的な量がある。練習でなんかあるわけない・・・」
シューと息が漏れている音がする。笑かしても爺ちゃんには辛いだけかもしれなくて、冗談だって言わないように気をつけているのに、僕が話すと嬉しそうに爺ちゃんは声を出して笑った。笑って、そこらじゅうが辛そうに見えるのにまた笑ってみせた。
「謙也、惚れた女や・・・」
「え?」
「ほんまに悲しいさいならはな、惚れた女が先に逝くことやで」
「婆ちゃんか!」
ゲッハハハ。海老のように爺ちゃんの体が跳ねたので、僕はその背をさすり、首をふる爺ちゃんに「無理にしゃべらんでええよ。わかったから」と言った。学部のマドンナの藤枝まどかを僕は思い浮かべていた。まどかの彼氏になることは100%ないけれど、まどかが僕より先に死んでしまう可能性はある。
「大好きな人が先に逝くことがいちばん悲しかったんだろ、爺ちゃん。でも僕にはまだわかんないよ。そんときになってみんとわからん。僕はちっぽけだから、どうせなら自分がみんなより先に死にたいって思うかもしれんもん。どうせなら爺ちゃんより」
ペシッ。手の甲に爺ちゃんのツノがあたった。いつも叩かれる瞬間を見てないから、なんでこんなに痛いのかわからない。僕は勝手にツノと呼んでいる。
「痛いよ、爺ちゃん」
爺ちゃんと目があった。
「いききれ・・・謙也、いききれ」

あと数時間かもしれないと告げられると、爺ちゃんの息がさらにか細く聞こえて、もう一度くらい目を開けて、なにか話してくれないかと願った。願いながら時計を見て、数時間だということはもう今日の間に爺ちゃんは星になっちゃうのかと思った。
「写真なんてほんとにとったの」
母さんが言った。「さいならの日」に変わってしまう覚悟を少ししたようだった。
「うん、とった」
もう一度、写真を捜した。冷静なようで、僕の指は震えていた。写真をとるのを拒んだのは、爺ちゃんがいつかいなくなることを認めたくなかったからだとわかった。
「謙也・・・」
こんどは僕が母さんの隣りで泣いていた。自分が死んだら「さいならする本番の練習だと思え」なんて孫に言うかよ、ふつう。ほらみろ、本番がきちゃうじゃないか。
「よければ私がお捜ししましょうか」
看護師さんが言ってくれたので、僕は携帯の写真をゆっくりスクロールしてもらうよう頼んだ。
「あ、これ!」
「これこれ」
あの日。喫茶店の席で、「死ぬ日までは生きる。それしか言えん」とつぶやいた爺ちゃんの、猛烈なかっこよさにみんなが唸った。それからしばらくの間、写真を撮った日のことや、マーク・トウェインの言葉に付け足した爺ちゃんの名言のことを話した。

爺ちゃんの心臓は静かに止まった。
「生き切られたいいお顔をしていらっしゃいます」
とドクターが言った。なにがあっても生きてみろ。なにがなくても生きてみろ。
あれがそうか、あの日がそうか。諦めようとする者の背中を押し、諦めない力を見せることか。僕は懸命に頭の中で翻訳を続けていた。

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