グリルチキンも食べ終えた杏菜は、シャンパンを一口飲み、太ももの下に右手を差し入れた。そろそろ最後の「何でもやってあげます券」を使っても良い頃合いだろう。
「あのさ」
杏菜と景義が同時に口を開いた。
「何?」
「そっちこそ」
「どうぞ」
「どうぞ」
二人は互いに譲り合った。
「じゃあ・・・・・・」
杏菜が話しかけたところで、「やっぱ俺から」と景義がそれを制した。
「杏菜に謝りたい事がある」
景義は神妙な面持ちでそう切り出した。あまりにも重々しい口ぶりに、杏菜は妙な胸騒ぎがした。
「今回は誕生日プレゼントを用意できなかった」
杏菜は一瞬景義の言葉の意味が理解出来なかった。このディナーがプレゼントでは無かったのだろうか。杏菜はそのつもりでリクエストしていた。
「いいよ、そんなの。これで十分」
「代わりに渡したい物がある」
景義はスラックスのポケットから上品な紺色のケースを取り出し、テーブルの上で開いて見せた。中には、杏菜の誕生石の小さなダイヤをあしらった指輪が納められていた。
杏菜は驚きのあまり呼吸が止まり、両手で口元を覆った。
「結婚して下さい」
景義は、真っ直ぐに杏菜の目を見て淀みなく言った。杏菜の目からはたちまち涙が溢れ、頬を伝った。
「いいよ」
そう答えた彼女の声は、震え、かすれていた。
「ありがとう」
景義はケースから指輪を取り出し、杏菜の左手を取って、その薬指にはめた。杏菜は左手を目の前にかざし、うっとりと眺めた。小さなダイヤにキャンドルグラスの炎が映り込み、キラキラときらめいている。
「そう言えば、杏菜も何か言おうとしてなかった?」
「え?・・・・・・ああ、大丈夫。気にしないで」
「そう。・・・・・・ならいいんだけど」
結局、最後の券は使わずに済んでしまった。「私と結婚しなさい」という指示書きにも、後で取り消し線を引いておかなければならない。何にせよ、杏菜には次の指示を考える楽しみがまた出来た。時間はたっぷりとある。「何でもやってあげます券」に有効期限は無いのだから。
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