樹くんは、小さな手で糸子のフリースの裾を引っ張った。糸子ははっとして、溶けて手に垂れたアイスを舐め上げた。
月曜日の昼、糸子と宮島さんは会社から少し離れた食堂でトンカツを食べた。
宮島さんは、糸子に深くお辞儀して感謝を伝えた。日曜は、宮島さんのお母さんが来て樹くんをみていたらしい。顔色もよさそうで、糸子は安心した。
「これ、樹から預かってきたの」
カバンから綺麗な水色の封筒が取り出され、糸子は受け取った。
「なんかね、私にみられるの恥ずかしいみたいだからおうちに帰ってから読んでみて」
手紙を貰うのは、高校の年賀状以来だった。糸子は手紙を、丁寧にカバンにしまった。ここの食堂は、糸子が入社してすぐ、落ち込んでいるのを励まそうと宮島さんが連れてきてくれた店だった。最近来ていなかったが、相変わらず衣がサクサクしていて美味しい。
「糸ちゃん来週誕生日でしょ?樹に話したらお祝いしたいっていうんだけどどうかな?」
糸子は思いがけない提案に驚いた。社会人になってから誕生日はアパートで、いつもお気に入りのケーキを二つ買って一人で食べながら、一番好きな映画を観て過ごしてきた。
「樹がね、鶏の唐揚げ食べてほしいんだって、あの子料理が結構好きなんだ」
糸子は、微笑みながら頷いた。
トンカツを食べて会社に戻ると、フロアが少し慌ただしくなっていた。去年入った新人の女の子がミスしてしまったらしい。トイレから目を腫らして出てきたその子に声を掛け、糸子は一緒に残業した。宮島さんが買ってきてくれた肉まんをその子と食べながら、糸子は懐かしい気持ちになった。仕事が自分の一部であることに、糸子は初めて気付いた。
アパートに帰ってコンビニのお弁当を食べながら、糸子は樹くんの手紙を開いた。たどたどしいが丁寧な鉛筆書きで、二人で遊んだことが日記のようにびっしり書かれていて、糸子は笑った。言いようのない嬉しさが込み上げてきて便箋を手のひらで撫でた。はっと、何かを思い出した糸子は、雑貨を放り込んだ箱をひっくり返してガサゴソ探り始めた。
小春日和の暖かな日だった。
テーブルにはサラダや唐揚げ、グラタンなどが色とりどりに並んでいて、赤い三角帽子を被った樹くんが、糸子に同じ帽子を被せた。リビングには、樹くんと宮島さん二人が笑っている写真が三枚、パステルカラーの写真立てに飾られていた。サイダーで乾杯して、三人でわいわいと食事を楽しんだ。
「糸ちゃんおめでとう」
ひとしきり食べ終え、樹くんから手作りの動物クッキーを渡された糸子は、大きな声でありがとうと叫んだ。チョコの目がついたウサギやネコが、袋のなかで笑っていた。
「私からはこれ、手紙のお返しです」
体をくねらせながら急いで包みを破った樹くんの手には、万年筆が握られた。
「小さい子でもすぐ書けるのが人気みたいで、よかったらまたこれでお手紙書いてください」
ありがとうと叫んだ樹くんは、一緒に入っていた緑の封筒を開けた。中には、雑貨が放り込まれた箱から見つけ出した万年筆で書いた手紙が入っていた。手紙の最後に、一篇の詩が添えられている。
「これ糸ちゃんが書いたの?」
はい、初めて書いてみましたと消え入りそうな声で糸子は答えた。
「いいよぉ、この詩、すごくいい」
樹くんの小さい手が握る手紙を覗き込んだ宮島さんは、混じりけの無い、心底感嘆した声を漏らした。顔を赤くした糸子は、頭をガシガシと掻いた。
糸子のアパートの下に、樹くんと宮島さんが立って、心配そうに上を見上げている。冬にしては暖かだが、空気は凍っている。
プレゼントを渡し合ってすぐ、糸子は何も言わずに、二人をアパートに連れてきた。
「ママ、糸ちゃんは?」
「何だろうね、ママも知らないんだ。もうちょっと待ってよう」
樹くんが飽きて、地面に丸をたくさん描き始めたとき、アパートの屋上から糸子が現れた。真白いてらてらしたワンピースにフリースを羽織り、頭に花輪を乗せている。樹くんと宮島さんは、口をあんぐり開いたまま上を見上げた。
「お待たせしました!三十になった私、奥野糸子、自分と結婚します!」
糸子は、屋上の淵まで恐る恐る足を進める。地上から二階分だが、それなりに高さがある。糸子は大きく息を吸い込んだ。
「宮島さん、いつもありがとう。私、自分をもっと好きになってみます。愛してみます」
宮島さんは、うん、と大きな声で答えた。
「だから、宮島さんも、樹くんともっともっと幸せになってください」
そう叫んだ糸子は、手に握っていた花束を思いっきり空に向かって放った。ゆっくりと宙を舞った花束は、宮島さんの手のなかにすっぽり収まった。糸子が手を振ろうと宮島さんを見ると、泣きながら微笑んでいた。糸子もつられて泣きそうになった。ワンピースからのぞく素足を冷たい風が通り抜けたが、糸子の体は燃えるように熱かった。樹くんが、頭に乗ってるのちょうだい投げて、と叫んで、糸子はさっきよりも高く花輪を空に投げ上げた。
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