【ARUHIアワード12月期優秀作品】『青空に花束を放って』高橋百合子

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 初めて万年筆で文字を書いた日を、糸子ははっきりと覚えている。
 鉛筆で字を書くのにもまだ慣れていない十歳の頃、文房具メーカーで働く叔父からプレゼントされたのが、本格的な青いインクの万年筆だった。大人しいくせに、ちょっと人から抜きん出たい矛盾のある糸子は、万年筆を学校に持って行っては、教室ではなく図書館の端の席で、宛先の無い手紙を書いた。一度、書いた手紙を封筒にしまって、でたらめの住所を書いてポストに入れるいたずらもしたが、怖くなってそれきりやめた。大人になったらエジソンみたいに有名になって、道ですれ違う人皆に、万年筆でサインするんだ。嫌々始めたバレエも、弟の方が上手なスイミングスクールも、全部中途半端なのに、糸子の空回りした野心はどんどん大きくなっていった。けれども推薦の大学に入った頃には、万年筆も野心もすっかり忘れ、あっという間に大人になってしまっていた。

 がらりと引き出しを開けると、チョコ、グミ、クッキー色とりどりの菓子箱が顔をのぞかせる。目を瞑った糸子が、がさごそと引き出しを探って、ぱっと箱を取り出す。
「またこれかぁ」
 昨日と同じ箱に糸子はぼやきながら、綺麗な青色の包みを取り出すと素早く破ってチョコを口に放り込んだ。向かいのデスクからクスクスと、小さな笑い声が聴こえる。
「すいません……」
「私にも一つくれる?」
 バツの悪そうな顔をしながら、糸子は向かい席に、黄色の包みを恭しく渡した。受け取った宮島さんは、楽しそうに包みを開けて、ありがとうと呟いた。
 糸子がこの会社に入ってから、あとちょっとで八年になろうとしていた。野心などすっかり忘れた糸子が受けたのは、自分が好きなお菓子のメーカーばかりで、贔屓にしていたチョコの会社は落ち、乗り気でなかったおせんべいの会社に受かった。宮島さんは入社以来お世話になっている先輩で、すっきりしたショートカットに、少しふっくらとした色白の肌のせいか、年齢よりも若く見える。自分が思っているよりも少しどんくさくて要領の悪い糸子を、宮島さんだけが見捨てず、親身になって指導してくれた。糸子もまた、悲しい悔しいことがあっても、宮島さんの励ましと優しさに応えようと努力して、今では三時のおやつが、二人のささやかな楽しみになっている。
 机に乗った赤青黄の三色の包みゴミをカバンにしまって、深呼吸ひとつしてからパソコンに向かうと、スマホが光った。点滅するメールの送り主に、糸子はため息をついた。

 夜の空気は、ちょっとだけ甘い匂いがする。
 糸子は、夏の夜は大嫌いだが、冬の夜は大好きだった。一人暮らしのアパートには小さなベランダがついていて、余力がある日は夕食後、ベランダで熱いココアをぐいぐい飲むのが日課になっている。毛布を三重に巻いた体をベランダの柵にもたせて、ビールを煽るようにマグカップを傾けた。都心から少し離れているうえに、アパートの二階だからか、通りを挟んだ小さな公園が見えるだけで、あたりは静かである。目を瞑って耳を澄ませると、誰かの口笛や、遠く電車の音も聴こえてくる。糸子はこの時間が好きだった。だがこの日は、少し違った。それは、昼間の点滅だった。母親からのメールは、オミアイドウデスカ?キット、イトコノタメニナリマスと、電報のように頭の中を流れ続けて消えない。思春期の頃はもちろん、家を出てからも、色恋について話すことは一切ない堅い家族だった。なのに最近、似たようなメールが何度もやってくる。瞑った目をさらにきつく瞑り、ブンブン頭を横に振ってみるが、電報はなかなか頭から消えてくれなかった。

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