年が明けて、また会社が始まった。
糸子と宮島さんの関係は変わらず、決まって三時には一緒にお菓子を食べた。糸子は、宮島さんの旦那さんと息子さんには会ったことがない。だが一度、三人でお揃いのニット帽をかぶった写真を見せてもらって、いい家族だなと思ったことを思い出した。なぜ離婚したのか、その理由は宮島さんにしかわからない。糸子も、理由が知りたいとは全く思わない。けれど、宮島さんが何か困っていたり苦しんでいたりしたら、少しでも力になりたいと、静かに決意した。
それは、土曜日の朝早くだった。
根がぐうたらな糸子だが、晴れた休みの日はそれなりに早起きして、ベランダにやってくるすずめにパンくずをやる。糸子の足元で、三羽のすずめが我先にとついばんでいる。糸子が一番早くくちばしを動かしているすずめに触ろうとすると、すずめはぴょんっと大きく飛び跳ねて、ベランダの隅に避難した。スウェットのポケットにしまったスマホが振動して、糸子は気だるそうに取り出す。宮島さんからの着信だった。毎日会社で顔を合わせているし、めったに連絡し合うことはない。糸子は慌てて電話に出た。
「あ、もしもし、糸ちゃんごめんね朝早くに」
石臼をひくような声で宮島さんは苦しそうな息をしていた。
「いえいえ、おはようございます」
裸足の足裏をスウェットに擦りつけながら、糸子はベランダから室内に戻った。
「実は、風邪引いちゃって……。樹が、あ、息子がいるんだけどちょっと……」
言い淀みながら、宮島さんは大きく咳き込んだ。糸子は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「大丈夫、私今から向かいます。息子さんと外で遊んできます」
消え入りそうな声でごめんなさい、ありがとうを繰り返す宮島さんに優しい声を掛け、糸子は素早く支度を済ませると家を飛び出した。
糸子が家に着くと、今年小学生になったばかりの樹くんは、宮島さんの枕元にジュースや果物を並べて、祈祷師のようにブツブツ呟きながら何度も拝む真似をしていた。
「樹、糸ちゃんの言うことをちゃんと聞いて、困らせちゃだめだよ。お母さん怒るからね」
宮島さんの言葉に樹くんは了解!と叫ぶと、糸子をじっと見つめた。飴玉のように丸くふっくらとした瞳に見つめられ、糸子は自分の口元が硬くなっていることに気付いた。糸子は小さな子供が苦手だった。母親にこんなことを言ったら、きっと唖然とするだろう。しかし、そうもいっていられない。クマのリュックを背負った樹くんと手を繋ぎ、糸子は宮島さんのマンションを出た。
ブランコで競争して、一緒にジャングルジムに登り、頂上でアイスクリームを食べた。保護者、子供、という関係性を取り払って、樹くんのクラスメイトの気分になったら、いつのまにか糸子のほうが楽しくなっていた。
「アイス美味しいね」
「冬にアイス食べるのは粋なんだよ」
「粋ってなに?」
「何だろう……。江戸っ子ってことかな」
樹くんはわかっていなさそうだったが、ケラケラと笑った。
「糸ちゃん何の夢あるの?」
「夢?」
「まだ若いでしょ。ママが、お姉さんって言ってた」
糸子は、アイスを食べる手を止めて、遠くの砂場を眺めた。猫が一匹、用を足していた。
「僕はね、時計の修理屋さん。おじいちゃんが昔やってたんだって。だから弟子になって後を継ぐの」
「へえ、素敵な夢だね。私も古い時計好き」
糸子は、図書館で昔書いた手紙を思い出そうとした。けれど、何を書いていたか少しも思い出せなかった。ただ、自分は特別で友達とは違う、大人になったら誰もが知り羨ましがるような個性的で素敵な人間になっている、そんな淡い自尊心を抱えながら、夢のなかを生きてきたように思う。世間の普通と少しずれていることを誇れるほど、努力も地位も希望もない事実が、年を経るごとに糸子の体を刺し貫いた。ずっとふわふわと漂っている。中途半端な人生だ。母親は、深く考えず、とりあえずお見合いをしてみたらと言う。でもそれは違う。樹くんの夢に乗っかって、時計の修理屋になろうか。それはもっと違う。仕事をして三時におやつを食べる、夜ベランダでココアを飲む、すずめに餌をやる、どれも気に入っている自分の一部だが、時々ふっと虚しくなる。欠けたピースをはめ込みたい、けれど、そもそも何が欠けているのか分からない。