【ARUHIアワード12月期優秀作品】『青空に花束を放って』高橋百合子

 居酒屋の喧騒は、狂気に満ちている。
 糸子は、毎年やってくる忘年会がピーマンの次に苦手だった。嫌いではないが苦手である。しかも今回は、宮島さんと席が離れてしまい、心細さが顔に出ていることが自分でもわかった。皆顔見知りではあるが、普段それほど話すことのない人たちである。しかもお酒が入ると、男の人たちは少しずつ人格が変わって、下世話になったり図々しくなったりする。女の人たちも、それに合わせるように、体が柔らかくなって、表情が崩れてくる。
「奥野さんもそろそろ結婚しなきゃ。あっという間に歳食っちゃうよ」
 横に座っていた先輩に肩を揺さぶられて、糸子は曖昧に微笑んだ。
「ほんとほんと、あいつなんてどう?イケメンくん」
 斜め向かいに座った違う部署の男性が、遠くにいる去年入った新人の男の子を指さして叫んだ。男の子は、キョトンとした顔でこちらをみている。
「だめだよ、年も、あと雰囲気?も全然違うでしょ!もっと見合う人、見つけてあげないと!」
 横の先輩のツッコミに、わっと笑い声が起こって、タバコで濁った空気がさらに濁ったように感じた。母親からのメールがまた頭に蘇ってきて、糸子は強く瞬きした。隣の先輩も、斜め向かいの人も、忘年会を成立させるために必死なのかもしれない。けれど、毎年、いい年したオジサンたちの安い恋愛話に無理やり自分が使われるのはそれなりに苦しかった。だが、言い返す気力もない自分は、もっと虚しい。世の中の忘年会の基準が、ケーキビュッフェになればいいのに。糸子は、言われた言葉を頭から吐き出そうと、昨日観たドラマの続きを予想しながら、もくもくと食べ続けた。

 二次会へ行くかたまりがマグロの群れのように流れ去ったあと、糸子は、宮島さんと一緒にカフェに入った。
二人で新作のカフェラテを注文して席に着くと、遅いからか、頭を擦り合わせながら話し込むカップルと新聞を大きく広げたおじさんが遠くに座っているだけだった。さっきの喧騒が嘘のように、コーヒーを入れるコポコポという音だけが響いている。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
 カフェラテで小さく乾杯して、糸子はグビグビと飲んだ。
「糸ちゃん大丈夫だった?助けられなくてごめん」
 遠くにいた宮島さんにも、笑い声は届いていたらしい。
「ううん、大丈夫。もうああいうの慣れたし、言われてもしょうがないよ」
 宮島さんは、心底悲しい顔をして、
「そんなこと言わないで。あんなの、セクハラ以外の何物でもないんだから」
 と、少し早口でしゃべった。糸子は、いきなりギュッと熱くなった目頭を指で押さえて、微笑んだ。
「母にはね、その、お見合い……、してみないかって言われてて」
 糸子は、勉強が大好きだった弟が、同じ有名大学の同級生と早くに結婚して昨年子供が生まれたこと、一方自分は、誰かと付き合って結婚したいという願望がなく、人としておかしいのではないかと不安を感じていることを、宮島さんに語った。
「糸ちゃんは何にもおかしくないよ。恋愛も結婚も、したい人がすればいいんだから。糸ちゃんは糸ちゃんでいて」
 宮島さんは、真っすぐ糸子をみていた。
「……宮島さん、ありがとう」
 宮島さんは、糸子に笑いかけると、窓の外に視線を逸らした。ビル街の赤やピンクのネオンが、宮島さんの瞳をせわしなく照らしている。
「私ね、離婚したの、先月」
 宮島さんは、窓の外を眺めたままそう呟いた。糸子はその言葉を聞きながら、ぼんやりと、宮島さんの胸元についたブローチを眺めた。ずっと昔、糸子の歓迎会のときに着けていた青い鳥だった。長く伸びたくちばしの黄色が薄く剥げかかっていた。
「難しいね、生きていくのって」
 そう言った宮島さんの目尻が、力なく下がっていくのを糸子は初めてみた。飲んじゃおっかと宮島さんが呟き、カフェラテを一気に流し込んで店を後にした。

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