「20年も前だからもっと若かったと思うけどね。」
「カッコいいけど。でもそんなに、真面目に考えなくってもよかったのに。」
「そうかなぁ。」
「僕はそう思うけど。…ところで、この手袋は?」
「玄関でね、私に断ってから靴入れの中を探してこの作業手袋を出したの。あの人は言わなかったけれど、前にもこの家来たことあるんじゃないかしら。」
「きっと、その時手にいばら刺したんだよ。」ヒロキはそう言いながら、固まっていた気持ちが少し溶けていくように感じた。
仕事の決まったヒロキが母のユミコと一緒に暮らしていたマンションを出ることになった時、ユミコは誰にも相談せずマンションを売り払い、50年前に建てられたという庭付きの一軒家を買った。そのことをリョウコが知ったのは、ヒロキの引っ越しの日だった。
ヒロキの手伝いに来たリョウコは、引っ越し業者が数人で母の指示を受けながら家の中の一切合切を梱包している様子を見て目を丸くした。
ヒロキに向かって「これ、どういうこと?」リョウコが聞くと、ヒロキは困ったように笑いながら言った。「見ての通りだよ。母さんも今日引っ越すんだってさ。」
母が引っ越して1年も経つと、死んでいた古い家は息を吹き返し、次第に“ユミコの城”になった。ミュールのいばらが庭に根付き、そのいばらや庭の草花をスケッチするために、腐りかけていた縁側が手直しされて蘇った。いくつかの部屋に区切られていた一階は、壁や扉が取り払われ、レース編み教室のスペースとなった。そしてその奥、庭の見える場所にニードルレース用の作業台が設えられた。庭に面したガラス戸から朝の光が刺すと、アンティークレースが飾られた作業場は金色に輝いた。叔母のサチコはそれを見て「女王様の玉座みたいねぇ。」と感心して言った。
「あーー。あーーっ。」カラスの鳴き声がすると思ってヒロキは目を覚ました。母が亡くなって1週間になる。明日からは仕事に出なければいけないので、今日中にアパートに帰るつもりだった。
パジャマのまま一階に降りると、機嫌のいい姉がコーンフレークの皿を持って縁側にいた。今日のは牛乳入りだった。「あ、ヒロキ。ちょっと、見ててよ。」そう言ってリョウコは、「あーー。あーー。」と鳴いた。すると、庭に返した昨日の子ガラスがチョンチョンとこちらに近づいてくる。リョウコがカラスの鳴き真似をするたびに、カラスはリョウコに近づき、ついにはコーンフレークにたどり着くと、ビチャビチャ食べ始めた。ヒロキにどうだという顔をしてリョウコは言った。「仲間だと思ってくれたかしらね。」
さすがにそれはないとヒロキはおかしかったが、カラスも人に懐くんだと驚いた。
「でも…、一晩たっても飛べるようにならなかったんだね。こいつ。」
「急には良くならないわよ。ちゃんと栄養をとれば、きっと元気になるわ。羽だって、今に艶が戻って…。」リョウコがカラスの背に触ろうとしたその時、突然カラスは、バサバサと羽ばたいて、コーンフレークの皿を蹴飛ばした。ひっくり返った皿はリョウコの膝の上に牛乳とコーンフレークを撒き散らした。
驚いたリョウコにヒロキは庭の向こうを指差す。「ほら!あっち。」
いばらの陰からこちらを伺っていたのは、虎縞の大きな猫だった。
それに気づいたリョウコは、汚れた床やジーンズは御構い無しに、庭に飛び降りると石を拾って投げた。「シッ!あっち行きなさい!」
リョウコの勢いに気圧されて虎猫は慌てて姿を消した。カラスは縁側の端っこでまだ緊張した様子で身構えている。
「きっと、飛べなくなったの、あいつのせいだ。」ヒロキはひっくり返った皿を片付けながら言った。