「いばら姫のお城だね。まるで。」ヒロキが言うと、サチコは「王子様がくれば、ユミコ姫も蘇るかしらね。」と、冗談めかして言った。
「母さんの王子様は気配も無かったわ。」とリョウコは小さいけれど強い調子で言った。そして、「確かにあの人が来たら、びっくりして母さん蘇っちゃうかもね。」と続けた。
“あの人”は葬儀が全て終わった次の日、ひょっこり現れた。
それはヒロキが庭に出て、伸びすぎたいばらを切ろうと枝切り鋏を持って格闘している時だった。「素手だとそのいばらは危ないよ。手袋履かないと。」声の方を振り向いてヒロキは動きが止まった。
物腰の柔らかそうな喪服姿の男性は、ヒロキの子供の時の記憶よりも少しふっくらとして髪も白かった。その人が写っている写真は母が綺麗さっぱり処分していたけれど、その人が誰なのかヒロキは即座にわかった。
「あぶないよ…。」ヒロキは微かな声でつぶやく。“な”にアクセントを置くその言い方は、どこかの方言なのかその男性独特だった。「あぶないよ。」ヒロキはもう一度記憶に分け入るように慎重につぶやく。
「玄関からどうぞ。」縁側のガラス戸を開けてリョウコが男性に声を掛けた。
男性はリョウコの声に従って家の中に入ったが、ヒロキは中に入らず、ガラス越しに男性とリョウコがやりとりをする様子を見ていた。二人は静かに向かい合ってしばらく言葉を交わしているようだった。それから男性は遺影を見上げ、祭壇に向かって手を合わせる。それは随分長い時間だった。庭からは後ろ姿しか見えなかったので、どんな表情をしているのかは分からなかった。リョウコは終始不自然なくらい落ち着いた様子で、一度も笑顔はなかった。リョウコは何度か庭をちらりと見た。ヒロキが二人のことを注視しているのに明らかに気がついていたが、ヒロキを中に招き入れるつもりは全くないようだった。
男性は立ち上がって玄関に向かう。ヒロキの視界から消えて少し間があって、「ヒロキ!これ。」ヒロキに向かって作業手袋を掲げる男性の姿があった。男性はヒロキに近づくことなく、手袋を郵便受けの上に置いた。
「…ありがとう。」ヒロキはそれだけ言った。本当はもっと他にも言いたいことがたくさんあった気がしたけれども、急に色んな気持ちが湧き上がってきて言葉にならなかった。
男性は少し微笑んで右手を上げ、帰って行った。
見送ったリョウコは、男性が置いた手袋を掴んで、庭にいるヒロキに手渡した。
「…あの人。母さん死んだことどうしてわかったの?」ヒロキはやっとのことでリョウコに言葉を発した。
「私がハガキ送ったのよ。住所わからなかったから会社宛てに。」
「そうなんだ。」ヒロキは驚いた。でも、よく考えると当たり前のことだと思った。
「今、東南アジアにいるんだって。ミヤンマーに住んで現地の人と働いてるって言ってた。知らせが届いてすぐに来たけど、葬式に間に合わなくてすまないって。…それから、母さんの写真を見て、あの人ね、この表情見ると思い出すって言うのよ。」
「何を?」
「母さん、あの人に言ったんだって。私たちそれぞれやらなきゃいけない大事なことがあって、でもそれはこの先重なる事はないって。」