優しく撫でると、返事をする代わりにゴロゴロと喉を鳴らすロクだった。
もちろん、大学を卒業してからも一緒だった。
「ただいまー」
疲れたと声色で現しながら腰を掛けて靴を脱いでいると、奥からパコパコとスリッパの音が聞こえてきた。振り返らなくてもわかる。母さんの足音だ。
「おかえり。今日も残業だったのね」
「うん。資料の作成ミスが見つかってね。その修正で、こんな時間になったの」
「それは大変だったね」
「もう大変よ――」
私が零す仕事の愚痴を、優しげな笑みを浮かべて静かに聞いてくれる母さん。時折、「大変だね」とか「そうだよね」と相槌は打つものの、話を遮ることは決してしない。だから、いつまでも母さんに聞いて欲しかったのだが、ぐぅっと鳴る腹の音に話を中断させられた。
「お腹が空いたよー」
空腹だと体で表現するようにべたーと床に倒れこむ。そんな私を見た母さんが、ふふっと笑みを浮かべた。
「すぐに用意するから、ちょっと待っていて」
駆け足で台所へ姿を消していく母さん。
残された私は、気力を振り絞りなんとか立ち上がることに成功する。そして、疲れた足を引きずるようにして自室へと進んでいくのであった。
部屋に入った私が、最初にすること。
それは、ベッドを確認することだ。私が出かけている間に母さんが清掃しているらしく、ベッドは常に綺麗に整えられている。そのベッドの上。ちょうど中央で、ロクはいつも眠っている。
そして、今日もロクは眠っていた。
私が帰ってきたにもかかわらず、目を覚ますこともなく体を丸めたまま幸せそうに寝ている。
そのロクに狙いを定めた私は――。
思い切りダイブした。
そして、ロクのお腹に顔を埋めてもふもふを堪能する。
「ロクー。疲れたよー」
子供が母親に甘えるように、私はロクに甘えた。
そんな私の頬を、ロクは子猫をあやすかのように優しく舐めるのであった。
こんな幸せな日々がこれからも、それこそ永遠に続くと思っていた。
しかし、終わりは、いつかはくるものだ。
私は今、ある場所の駐車場にいる。
そこは、行く予定のなかった場所であり、行きたくなかった場所でもある。
だからだろうか。できることなら、このまま逃げ出したい。来なかったことにして、いつもの日常に戻りたい。そんな感情が私の中を渦巻いている。
しかし、逃げ出したところで、あの日々は戻ってこないのだ。
それに、行く手を阻むかのように外ではスタッフが待ち構えている。
「行くしかないか」
呟くようにため息を漏らした私は、助手席に置いてある小さなダンボールを抱えて、車から降りた。
「こちらにきてください」
五十代らしき白髪混じりの男性に先導される形で、私は重い足取りを一歩また一歩と進めていく。
やがて、男性が歩みを止めた。
「この台の上に置いて、最後のお別れをしてください」
男性が促してきた先。線香差しや花瓶などの仏具が置かれている真っ白な台の中央に、私はダンボールを優しく置いた。
「もしよろしければこれを」
男性から差し出された数珠を受け取る。
そして、手を合わせて目を瞑った。
目を閉じると、今までの思い出が蘇ってくる。
ロクとの最初の出会い。失恋した中学時代。受験で忙しかった高校時代。そして、社会人になっても、ロクはいつも側にいてくれた。
しかし、これから先の人生にはロクがいない。
そう思うと、悲しみが再び込み上がってくる。
できることなら、号泣したい。帰ってきて欲しいと天に叫びたい。
しかし、いつまでも嘆いていてはいけない。私が悲しんだままだったら、ロクが安心して天国に行けない。そんな気がするからだ。
だから、最後のお別れは、感謝の言葉を伝えることに決めていた。
あの日、私と出会ってくれて、ありがとう。いつも側にいてくれて、ありがとう。そして、たくさんの思い出を――。
「ありがとう」
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