いくらか進んだ先で振り返って父が言った。
登りはじめて間もないここで休むのは、なんだか嫌だった。父は平然とした様子で、ちっとも疲れているようには見えなかった。
私は首を振った。リュックを背負い直してまた歩き出す。うつむきそうになる顔をあげて父の背中を追う。
山道というのは一本道で、そこをみんなが行き来するものだと思っていた。けれど想像以上に、登山をする人はいろんな道を選んでいくらしい。
分かれ道に立て看板があったり、険しい斜面に踏み固めて作られた階段があったり、二又に分かれているのに十メートルもせず合流するような道がいくつもあった。
どの道を歩くのが正しいのかは、私にはわからない。父が選ぶ道をついていくだけだ。
一時間くらいは歩いた気がしたけれど、実際はもっと短いかも知れない。腕時計を持ってこなかったことを少しだけ後悔した。スマホはリュックの中だし、森の中に時計が飾られているわけもない。時間がまったくわからないでいるのは初めての経験かもしれない。
さっきまではあんなに苦しかったのに、ふと気づけばいくらか余裕を持っていた。息も不思議と落ち着いている。体が慣れたのだろうか。
山道とはいえ登り道ばかりではない。平坦な道が続いたり、時々は下ったりもする。途中で谷のようになっているからだ。
父が立ち止まってリュックをおろした。私が追いつくと、ペットボトルをこちらに差し向ける。受け取って封をあけ、落ち着かない呼吸の合間にひと口、飲んだ。
味もわからないままにごくりと飲んで、すぐにまた流し込む。熱を持った身体に甘ったるいスポーツドリンクがたまらなく染みた。もちろんぬるくて、家で飲んだら美味しいなんて思いもしない。なのに今はこれより欲しいものなんてないと断言できる。
半分近く飲み干してようやく、ほうと息がつけた。
「疲れたか?」
と父が言った。
「うん。でも、なんか平気になった。変だけど」
「山はそういうものらしい。登りはじめの十五分がいちばんキツイってな」
ふうん、と頷いて、私も父に倣ってリュックをおろした。大した荷物も入っていないのに身体が軽くなったみたいだった。タオルを取り出して、額と首に浮いた汗をぬぐった。
「あと、どれくらい?」
「ここからなら一時間ってところだろう。ただ、傾斜が強くなるからな、しんどいぞ」
「お父さん、来たことあるの?」
「昔な。お母さんに連れてこられたんだ」
父の口から母の話がでたことが、私には驚きだった。努めて平然としたふうに装って、誤魔化すみたいにタオルで口を隠した。
「……お母さん、山に登ってたんだ。意外」
「学生の頃は登山部だったらしい。県内の山はだいたい登ったなんて言ってたっけな」
私の記憶の中の母は、家でスリッパを鳴らしながら家事をしたり、クッキーを焼くのに失敗したりしていて、大きなリュックを背負って登山だなんて、想像できない。けれど母は、私が登って来た山道も、この先へも歩いたのだという。それが不思議な暖かさで胸を包んだ。
「さ、行くか」
と父が言う。
スポーツドリンクをリュックに入れて背負い直し、タオルを首にかけて、また父の背を追う。
父が言った通り、道は急に険しくなっていた。
岩と岩の間を両手をついて登ったり、上から垂らされた鎖を持ちながら進んだりした。
今までよりも激しい全身運動に堪えながら、父に離されないように付いていく。汗が一気に吹き出していた。背中にシャツが張り付いている。気持ち悪いと考える余裕もない。ただ登ることだけに必死になっている。
それでもどうしてもしんどい時には立ち止まって息を整えた。父はすぐに気付いて、少し先で待っていてくれる。