アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集する「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品をそれぞれ全文公開します。
山に登らないか、と父が言った。冷たい風の目立ちはじめた十月の半ばのことだった。
父の趣味が登山だなんて聞いたことはなかったし、そういう見た目でもない。細い線の身体で、太い黒縁の眼鏡をかけていて、山登りという言葉が持つおおらかで爽やかなイメージとは似合わない。
リビングのソファに膝を抱えて座っていた私は、父の提案を冗談だろうと思った。私が登校を拒否しはじめて半年近くが経っていた。その間、父とはろくな会話もしていなかった。
返事に迷って、とっさにテレビに視線を向けた。八時三十四分の朝の情報番組がタイミングよく天気予報のコーナーへ移っていた。昼からの降水確率は五〇%となっている。
「天気、悪いんじゃない?」
「大したことない。大丈夫だ」
力強く言われる。返事に詰まった。断る理由にするには五〇%の確率は弱かった。他にそれらしい言い訳を考えてはみたものの、すぐに見つかるわけもなかった。山登りというハードな運動のために家を出るのは気が進まない、と素直に言えるほどふてぶてしい性格なら良かったのになと思う。
「いいから、行くぞ。着替えてこい」
と言って、父はさっさとリビングを出ていった。言葉足らずなのは昔からで、ぶっきらぼうな言い方には慣れていた。私が小さなころから、そういう父に、はいはいと付き従う母を見ていたからだろう。
父は物静かな人ではあったけれど、言い出したことは曲げないような昔気質のかたくなさもあった。
私は抱えた膝の頭に唇をつけ、ぶるぶると震わせるように息を吐いた。
テレビではコメンテーターとして座るお笑い芸人がつまらない冗談を言っていた。周りの人は笑っていた。本当におもしろいと思っているのか、場に合わせた愛想なのか、私には分からない。
もし前者なら大人の笑いの感覚とは合わないなと思うし、後者なら大人も大変だなと思う。
場の空気を壊さないための努力はいつも必要で、心にもない感情を持ち出さなきゃいけないのは大人になっても変わらないのかもしれない。
きっと学校というのは社会でそつなくこなすために練習する場所なのだ。冗談を言った人のために笑うことは思いやりの交換みたいなもので、けれどそれは暗黙の優しさの強要の上に成り立っている。何とも思わずにできるようになったときに私も大人になるんだろう。
リモコンボタンでテレビの電源を切り、ソファから立ち上がった。
カーテンの隙間から見える空には白ぼやけの雲が平べったく広がっていた。空の端には色の薄い青空の尾が伸びている。やがて雨が降りだしそうだったし、すぐに晴れそうにも思えた。
父の運転する車で三〇分ほど走って目的地についた。駐車場にはすでに車が何台も停まっていた。
車を降りて登山道に向かう途中で、戻ってくる登山客とすれ違った。みんなしっかりとした山登りのための服装で、大きなリュックを背負っていた。両手にスキーのようなストックを持っている人までいた。靴だって頑丈そうなブーツだ。
私と父の服装といえば、スニーカーにジャージと小さなリュックという身軽なもので、どうにも場違いなように思えた。それでも父の背に「帰ろう」とは言い出せず、私たちは木々の間を縫うように伸びる山道に踏み込んだ。
最初は景色を眺めて森と土の湧きたつような香りを楽しむ余裕もあったけれど、十分もせず、息が上がった。
運動を苦手だと思ったことはなかった。胸を張れるほど得意というわけではないけれど、山を登るくらいはできるだろうと考えていた。
甘かった。そういえは半年近く、身体を動かしていない。
膝に両手をあてて口で荒い呼吸を繰り返した。心臓がばくばくと懸命に動いている。
顔の両脇から地面にまっすぐに髪が垂れていた。ヘアゴムを持ってくるんだったなとぼんやり思う。