「兄はそれも自分に許さなかった。父との約束は何があっても一回限り。兄は、自分は家業を継ぎますって父に頭を下げていた」
「そんな……」
「私は、兄の夢を壊してしまった。兄の将来を潰してしまったんだって、すごく後悔した。泣きながら、兄に謝ったことも何度もある。でもね、兄はやっぱり優しくてね、私を責めることなんて一度もなかった」輝子は何度か目を瞬かせ、大きく息を吐いた。
「あの時、輝子を見捨てていたら、僕は医師になる資格はないって言って、私の頭を何度も撫でてくれてね」
輝子は今でも自分を責めているんだ。兄がなんと言おうと、自分のせいで兄の将来を変えてしまったことに。ただ、謝り続けたところで、もうどうにも動かせない現実も、輝子自身が一番わかっているんだろうと、望美は俯いて話を聞きいていた。
「あの、お兄さんは、その後どうされたんですか?」望美は無理やり、ほんの少し明るい声を出して、輝子に質問した。健一のその後の運命が、少しでも明るいものであって欲しいという願いを声に込めていた。輝子は優しく目を細めて、小さくうなずいた。
「兄はその後、家業を継いだわ。でもお店として構えていた場所がね、区画整理の対象になって。結局、お店を手放すことになった。まとまったお金と引き換えにね」輝子は何かを思い出したように、くすくす笑って続けた。「でもね、兄はやっぱり勉強家で。そのお金は株やらなんやら上手に運用して、商売していた時より稼いでたみたい」輝子はそう言って、望美の顔を覗き込んだ。
「このマンションの部屋も、兄の持ち物のひとつ」
「え? そうなんですか。お兄さんとすれ違ったことあるかなあ?」望美がそういうと、輝子はふっと寂しそうな顔を見せた。「兄は、ずいぶん前に亡くなって、私が受け継いだのよ。奥さんもすでに亡くなられていたし、子供もいなくて。部屋の空気を入れ替えるために月に数回だけ、このマンションに来てるのよ」
「そう、なんですか……」望美は、健一が亡くなっているとも思っていなかったし、どんな言葉を発するのが良いか、分からなくなっていた。少し戸惑っている様子だったのを、輝子が察してくれた。
「ごめんなさいね。こんなおばあさんのしんみりした話聞かされて。面白くないわよね?」
「いえ、そんなことないです!」望美は慌ててぶんぶん手を振った。
「ただね。あなたの話を聞いて、昔話を思い出してしまって。あなたに兄を重ねてしまったのかもしれない。ごめんね、なんだか重い話だったでしょ?」
輝子は明るい口調で、そう言い「ただね」と続けた。
「あなたはまだ若いし、先回りして諦めるなんて勿体ないって思ったのも少し、あるかな。ふふ。ごめんね。おばあさんのお説教なんて、聞きたくないよね」
「あの、いえ。そんなこと、ないです」望美は少し俯いて、赤い顔をした。図星だったのだ。先回りして、諦めていることが。両親を説得できないんだから、仕方ない。そう思おうとしていた。
「自分が進む道を決めるのって、たった一度きりじゃないでしょ? 小さなことも含めたら毎日決断して、進んでいくでしょう?」そう言った輝子の目がきらりと輝いて、望美はハッと顔を上げた。
「あなたはまだ、決断の途中なんじゃない?」
輝子に投げかけられたその言葉に、望美は「はい」と返事をした。小さな声だったけれど、しっかりとした意志を持った声で。望美の声を聞いて、輝子もにっこりと笑い、ちいさくうなずいた。