【ARUHIアワード11月期優秀作品】『どうでもいいような嘘をついてしまう』もりまりこ

 季節を超えてしまった、コートを洗う。
 薄いグレーのウールのそのコートは、もうずいぶん昔に、祖母がいちどだけ袖をとおしただけのものだった。
 背の高さも体型もどちらかというと似ていたので祖母が亡くなった時、10年以上も前に形見分けしてもらったものだった。
 はじめてこの冬に袖を通した時、光はとくべつあたたかいものに触れている感覚があった。
 いつも厳しい祖母だったので、抱きしめてもらったり頭をなでられたりしたことはないけれど。このコートのどこかにそういう力が潜んでいるみたいに、体をつつんでくれた。
 なにかにつつまれているって、こんなにも安心感があるんだなって思って、仕事でちょっとハードルの高そうなイベントに挑まなければいけないときなど、いやそれ以外の日にも、好んで着た。
 大切だったひとの体が触れていた、エネルギーのようなものを光はその時はじめて感じたのかもしれない。

 週末の真夜中に、「25年目の弦楽四重奏」という映画を観ていた。
 映画の中バイオリン。たちまち消えてゆく音に耳を奪われながら、秒の束が降り注ぐことを感じていた時、滉から電話の呼び出し音が鳴った。
 週末なのにふたりが逢う約束をしなかったのは、今日が初めてかもしれない。
 そんな些細なことになんの意味もないかもしれないけれど。ふたりの中を縫っているあわい色合いの糸は、張りつめることもなくどこへ向かおうとしているのかもわからなかった。
「光? 今何してた?」
「コートを洗ってた」
「コートって? あの勝負コート? お祖母さまの形見の?」
「そう。なんでわかった?」
「なんとなく。で、それから?」
「映画観てた。25年目の弦楽四重奏」
「あの光の好きなフィリップ・シーモ・ホフマンの? 一緒に観たやつだろ」
「うん。シネマ・ジェリービーンズで。で? どしたの?」
「光? 明日空いてる?」
「明日、いいよ」
「どこがいい? クレーの喫茶店にする?」
「わかった」
 クレーの喫茶店は、光や滉がフェアが終わった後、軽く打ち上げなどをするときに使う仕事がらみで行くカフェだった。
 今日の会話に嘘はなかったことにもう少しすがすがしさを感じるのかと思っていたら、そうでもなかった。
 たぶん、嘘はついてしまってからでは取り返しがつかない記憶となって身体のどこかへとしみこんでゆくのかもしれない。

 滉との電話を切ってからハンガーに吊るされた乾いた祖母のコートの襟元のタグを見ていた。
 そこにふいに<memory>というロゴの連なりをみつけた。
 ずっとそのコートのことは知っていたのに、ロゴをみたことはなかった。
 そっと腕を通してそれを纏ってみた。
 10数年ぶりに、体温を感じる祖母と邂逅しているかのような気持ちに駆られていた。
 明日は冬が後戻りしたような気温です。そんなふうに気象予報士が言っていたことを思い出す。
 大丈夫だよね、おばあちゃん。わたしこれから滉がいなくても大丈夫だよね。
 光はそう呟きながら明日このコートを滉との待ち合わせ場所に着てゆくことを決めた。

 さよならをずっと先延ばしにしていた。
 そのことにピリオドを打つのは明日になるんだなって。
 光はモニター画面に映りっぱなしの映画「「25年目の弦楽四重奏」の25年目という数字にくらくらするような、羨望にも似た彼方を感じていた。
<終わりははじまりに先行する。そして終わりとはじまりは常にそこにある>そんなナレーションの声を聴きながら、祖母のコートの襟もとについているタグ<memory>の文字をぼんやりと眺めていた。

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