【ARUHIアワード11月期優秀作品】『どうでもいいような嘘をついてしまう』もりまりこ

 同僚の佐中と食事に行ったこと。それも滉と約束していたのにキャンセルしてまで。外商の佐中は滉とは得意先にふたりで訪れるようなことも度々あったので、仕事仲間だから3人で逢ってもよかったのに。平気で嘘をついた。
 それと、スクランブル交差点で、小学校の体育の先生に出逢ったこと。
「辻? 辻光?」
 スクランブル交差点の7分目ぐらいを過ぎたところでいきなりフルネームを呼ばれた。そのけだるい声に聞き覚えがあった。
 先生はトレパン姿じゃなかったけど、前田先生だってわかった。前田先生は光の癖のある歩き方でわかったらしい。交差点を過ぎて、ちょっとアーケードの邪魔にならない場所で立ち話した。
 そんなの憶えてるんですか? って言ったらだって新米教師だったからなんでも、生徒の癖は頭の中に叩き込んでやろうって思ってたんだよって答えてくれた。
 光は仕事のことで悩んでいたので去り際に聞いた。
「教師っていう仕事していてよかったですか?」
 前田先生は、躊躇なくうんって答えた。
「だって、子供が少しずつ成長したり努力したり怠けたりずるしたり、嘘ついたりするのみてるの。楽しかったよ。それぜんぶ含めて成長なんだなって気が付いたのはずっと後だったけど。よかったと思ってるよ。どして?」
 前田先生の屈託の無さと出身だった福井のイントネーションが耳に触れて、思いっきり今の悩みを打ち明けそうになったけど、光は堪えた。
「仕事の先輩方に聞いてるんです。なにか参考になるかなって思って」
前田先生はなかなか向学心があってよろしいってふざけたように言った。
昔体育の授業で例えば、今まで飛べなかった跳び箱が飛べたり、走高跳がバーをゆらさずに超えたりした時、前田先生はみんなをハグしてくれる癖があった。
 光はもし今、前田先生が訳もなくハグしてくれたら、たぶん今まで縁どられていたじぶんの輪郭線を失ってしまうようなそんな気がして。予定もなかったのに、「先生、この後取引先の方と待ち合わせなんです」って嘘をついて、その場から足早に去った。
 こうやって光は淡彩の絵具を重ねるように嘘をついてしまう。
   
 久しぶりの休日。
あんなに雨ばっかりだったのに、ふいにあたたかくなると、庭のいろんな植物たちが芽吹いて、季節はちゃんと前に進んでいるんだなって気づく。
 緑はすくすくと育ち、ぶかぶかの制服を着た幼稚園生が、嵐のような風のせいで道端に落ちた桜の枝を拾って、樹を見上げてている。
 つかんだものへの驚きを伝えようと、見上げた視線をそばにいるお母さんに預けて。出窓から見えたそんな風景を見て、あんな時間が光には訪れなかったことに思いめぐらしていた。その代わり祖母が母の代わりを、大学三年の時に亡くなるまでつとめてくれたことを、思いだす。
 昔ながらの古いミシンのかけ方を、手と足でリズムをとって教えてくれたり、鰹節の削り方を音で覚えなさいって言ってくれたり。おにぎりを2人で作った時に、光が作ったものは、握りがやわらかだったのか扇風機の風が吹いてきたら崩れてしまったことがあった。お皿の上でばらばらに散ったおにぎりを見て、ふたりで思い切り笑った。祖母は笑いすぎて涙を流していた。他愛もない時間が流れていたことが、光のなかでとても狂おしいほど大切な出来事のように感じてしまう。

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