【ARUHIアワード11月期優秀作品】『金曜日のカレーライス』一鶴真琴

 私はその日の午後に会社を早退した。体調が優れず、頭がくらくらとしていて、仕事が手につかなかった。
 体調不良の原因はわかっている。これまで金曜日のお昼にカレーを食べなかったことなんてなかったからである。どうしようもない焦燥感と喪失感に頭の中がかき乱されている。
 マンションの階段がいつもよりも高く、多く感じる。手すりを持ちながらじゃないと倒れてしまいそうであった。
 鍵を開け、家の中に入ろうとしたその時。隣の家からお隣さんが顔を出した。
「あ、どうも、こんにちは」
 お隣さんは私を見て、少し驚きながら挨拶をした。
「あ、こんにちは」
 私もとっさに挨拶を返した。
 2人の間に沈黙が流れた。私は半分だけ開いた扉との間で、このまま話を続けるか、部屋の中に入るかの2択を迫られていた。お隣さんも同様に顔を出しながら、部屋の外に出るか、戻るかで迷っているようであった。
「今日もカレーですか?」
 私は思わず口走っていた。すると、お隣さんが少し照れた様子で言った。
「あ、はい、そうですけど」
 私は何を言っているのだろうか。今日のカレー不足が頭に影響を及ぼしているのかもしれない。
「あ、すみません。突然変なこと言って」
「いえいえ、実際カレーなんで」
 また同じような沈黙が流れる。しかし、私はこの時、もしかしたらチャンスなのではないかと思った。今日のカレー不足はこのためにあったのではないかと思い始めたのである。私は会話を続けてみることにした。
「いつも金曜日の朝にカレー作っていますよね?」
「あ、はい作っています。もしかして、臭いますか?」
「はい、だいぶ匂ってきます」
「すみません。迷惑ですよね。以後気を付けるようにします」
「いやいや、違います! 別に嫌とかじゃなくてですね、というよりも、好きなんですよ」
「え?」
「あ、カレーの匂い。まあ、カレーが好きなんです」
 私たちはしばらくの間ちぐはぐなやり取りを繰り広げた。
「実は私、毎週金曜日の朝に匂ってくる、お隣さんカレーの匂いが好きなんですよ。その匂いで目覚めるのが、私の楽しみの1つになっていると言っても過言ではありません」
 すると、お隣さんは頭をかく仕草を見せながら言った。
「そこまで言われると、ちょっと嬉しいような恥ずかしいような」
「本当ですよ。実は私、今日のお昼にカレーが食べられなくて、体調を崩してしまって早退してきたんですよ」
「え! カレーを食べなかっただけでですか?」
「はい、カレーが不足すると体調を崩すらしいです。私も今日初めて知りました」
 私たちはお互いの部屋のドアを半開きにした状態のまま、カレーの話で盛り上がった。いつの間にか、2人はお隣さん以下の距離ではなくなっていた。
 半開きになった部屋の中からいつものカレーの匂いがする。私はその香しい匂いを嗅いで、少しだけ気分が回復したようであった。すると、そんな私の様子を見たお隣さんが言った。
「もしよければ、食べますか? カレー」
「え! いいんですか!」
 私は一番欲しかったおもちゃを目の前に差し出された子供のように真っすぐな目で言った。いつも当たり前のように近くにあったものが、こんなにもあっさりと手に入るチャンスが訪れるとは思いもよらぬ展開であった。
「はい、僕の手作りのカレーですけど」
「是非! 食べさせてください!」

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