しかし、私の中にも1つだけ求めているものがある。それは決して手の届かないものでもなく、高望みの願望でもない。
近くにあるものほど、手に入れることが難しい。それはまるで、幼馴染との恋愛模様のようである。いつも当たり前のように近くにいる存在との関係性を、自制心という垣根を超えることができず、自分の気持ちを隠し、一歩踏み出すことができない。私はまさに今その状態に陥っているのであった。しかも、1年以上も。
お隣さんは1年ほど前に私の隣の部屋に引っ越してきた。20代前半くらいの容姿に塩顔のイケメン風のお兄さん。たまに顔を合わせた時に会釈をし合うくらいの間柄なのだが、彼の顔を見るといつもカレーのことばかり考えてしまう。
そう、私の唯一求めているもの、それは「お隣さんが作る金曜日のカレー」である。毎週金曜日になると、お隣さんの家からカレーの香しさが私の部屋の中に流れ込んでくる。お隣さんが引っ越してきた初日にその匂いに魅了された私は、朝一番にその匂いの発生源を突き止めるために、部屋着のままマンションの部屋を飛び出してしまったことがある。
私はこの1年間、お隣さんのカレーが食べたいがために、仲良くなる方法を何度も考えた。しかし、彼の生活と私の生活には、時間的な差が生じてしまっていたため、彼と話すことはおろか、顔を合わせること自体がレアケースなのであった。
金曜日の夜は「あー、お隣さんの金曜日カレーが食べたいな」と考えながら、眠りにつく。
ある日の金曜日の昼。いつも通り、1人でカレー屋さんに向かおうとした時、同僚に声を掛けられた。
「ねえ、今日は私たちも一緒にカレー屋さん連れて行って」
いつもはお昼にカレーを食べることに抵抗を示している同僚の2人が、珍しくカレー屋さんに行きたいと言って来た。
「別に良いけど、お昼にカレーは嫌なんじゃないの?」
「良いの良いの、別にカレーを食べる訳じゃないから」
カレーを食べる訳じゃないのに、どうしてカレー屋さんに行くのだろうか。私は首を傾げたが、特に気にすることなく、カレー屋さんへと向かった。
カレー屋さんの近くまで来た時、私は信じられない光景を目にしてしまった時のように、目を見開いて驚きを隠すことができなかった。
「……なんで?」
私は思わずそう呟いていた。すると、同僚が言った。
「実はここのお店のからあげがすごく美味しいって、SNSで拡散されていたの」
「そうそう、どの定食屋さんよりもここのカレー屋のからあげが美味しいって評判になってた」
私は目の前の状況を理解することができなかった。確かにここのからあげは美味しい。どの定食屋よりも美味しいことは私も知っている。だけど、どうして、どうしてからあげなのか。私は自らの領域を迫害されたかのような気分に陥ってしまった。
「どうする? 並んでみる?」
「うーん、でもお昼休みの内に食べられるかな?」
同僚の2人は私が落胆していることに気付くことなく、目の前の状況に対して冷静であった。
「ねえ、どうしよっか?」
同僚の2人が私へと視線を向けた。しかし、私はまだこの状況を受け入れられるだけの気持ちの整理がついていなかった。
「……あ、そうだね。今日はやめておいた方がいいかもね」
私は鏡を見なくてもわかるほどに引きつった表情で返事をした。
「そうだね。今日は諦めよう」
私たちは来た道を引き返し、別の店でお昼を食べた。