なんでも大っぴらに話すことで、本当に大切なことを上手に隠していたのかもしれない。
朝昼晩に食べたもの、昨日見た映画、面白い深夜ドラマ。くだらないことで笑い合い、一時間の休憩を共に過ごして、私は彼女の全てを理解したつもりでいた。だけど本当は何も知らなかった。
金券ショップのバイトを辞めると聞かされたのは辞める前日で、明日からは旅に出ると、行きたい場所に行くのだと、景都は、いつもと変わらぬ様子で言った。いつも通り、駐車場の一画で昼ご飯を食べながら、空を見ながら。
聞こえてくる電車の音に、景都は「高校時代を思い出す」と言った。
「行けなかったんだけどね」
なんでもないことのように付け足されたその言葉の意味が、理解できなかった。理解できないことに自分でも驚くほど打ちのめされて、返事のタイミングを逸してしまった。
「……私、景都は本屋の店員だって」
途切れた会話を、静けさを、どうにかしなくては。そんな、いつかと同じ気持ちだった。
「だから働き始めたんだよ。嫌いな場所で」
あれから何が変わっただろうか。そんなことを思った。
「ねえ一体……どこに行くの」
絞り出すように訊くと、景都は手提げ袋から何かを取り出した。それは、飾り棚にあったはずの、セピア色をした写真集だった。
「ここに載ってる場所、全部。今度はちゃんと、私、行きたい場所に行くの」
私は景都と、もっと早くに出会いたかった。同じこの町にいたのに、どうしてこの歳になるまで出会えなかったんだろう。
この町を嫌いだという気持ち。それを共有して、共にこの町を出、憧れた街へと一緒に行けていたならば。
そんな子どもっぽい妄想が、なぜだろう、ずっと昔からそう思っていたかのように、もしくはそれが事実であるかのように、体中を駆け巡っていた。
「ののちゃんは、クマムシ店長じゃないよ」
突然、はっきりとした口調で景都は言った。
「たくさん我慢したんでしょ。だからもう大丈夫だよ。ののちゃんにはちゃんと居場所ができたじゃん。ののちゃんは、ここで自分になれるはずだよ」
セピア色の表紙を、景都はまるで宝物を扱うかのような手つきでめくった。
色が褪せていたのは表紙だけだった。ぼんやりと眺めた視線の先には、色とりどり、眩しいほどの景色が広がっていた。
「私はずっと我慢してた。だって、私の居場所はここじゃないの。だから探す。ののちゃんみたいに見つけるよ」
鮮やかな青、緑、赤。景都の話すわけのわからない話。目が眩んで、薄膜の向こうで鳴るみたいに、音が遠くなった。
おいていかないで。
私も一緒に連れて行ってよ。
言いたいのに、言えない。
いや、言わなかったのだろうか。
わからない。
出版社の名が印字された大きな茶封筒の束から、はらりと何かがこぼれ落ちる。
「でもねえ、最近よく褒めてもらうのよ」
奥さんの言葉の続きを待ちながら、落ちたものを拾い上げる。それは絵はがきだった。
「ののちゃん、一生懸命やるでしょう」
差出人には「ケイト」とあった。
はがきを持つ手が心臓になったみたいに、ドクドクと脈打つ。
「品出しも、お客さんからの難しいお願いも、どれも丁寧にやるからね。ここに来ると、欲しい本が必ず見つかるって、そう言ってもらえるの」
青い空。その空が流れ込んできたかのような水面。深い緑の木々。赤い壁の小さな家々。いつか見た色とりどりの景色がそこにはあった。
「表の棚、いいなあ」
休憩室の戸が僅かに開き、店長がちらりと顔を覗かせた。
「よくできてる」
戸が静かに閉まる。
「あら珍しい。十一月なのに、もう雪でも降るんじゃなあい?」
奥さんが小さく笑う。
『ののちゃん。幸せの形も、人の居場所も、色々だよ』
少し右上がりの、景都のくせのある文字。
文字の上に指を滑らせる。棚に並ぶ本を触るときのように。いつか見た店長の手元を真似るように。ここにある全てを、慈しむように。
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