「たいしたことなくて良かったじゃないか」
夫はネクタイを外しながら、どかっとリビングのソファに腰をおろして背伸びをした。
「そうだけど、やっぱり一緒に暮らしたほうがいいのよ。またこんなことがあったら、今度は助からないかもしれないし。あなたがたまたまお母さんの家に寄ったからよかったけど、次はどうなるかわからないし」
「僕も病院で同じこと言ったんだけど、どうも気がすすまないみたいでね」
「もうお母さんの意見なんてきかなくて、強引につれてくるべきじゃない」
私は腕組みをして壁にもたれかかっていた。
「お母さんだって一人じゃいざというとき不安だって思っているみたいだよ」
「でしょう。頑固で意固地なだけなのよ」
「でも家にはたくさんの思い出がつまっているって言っていたよ。最初はお父さんだけじゃなくて、お爺さんもお婆さんも一緒に暮らしていたんだってね。そして満子も生まれて、ずいぶんと賑やかな家だったようだね。やがて、お爺さんが亡くなり、お婆さんが亡くなり、満子が家をでていき、お父さんも亡くなって、お母さんはひとりぼっちになってしまった。広い家で、使うことのない部屋もある。寂しいって思うときもあるみたいだよ。でも家は捨てられないんだって。満子が子供のころ壁に書いた落書きも残してあるし、毎年柱に刻んだ身長の傷も残してあるし、家具だって傷があっても、その傷のひとつひとつが愛しいそうだよ。家も古いし、痛んできているけどこのままここで住み続けたいんだって、そんなことを言っていたよ」
「お母さん、そんなことを言っていたのね。私以外には案外素直になるんだ」
「お母さんは、いつまでたっても満子のお母さんなんだよ。満子はいつまでたってもお母さんの子供だからなんだろうね」
「私だって実家には思い出がたくさんあるんだけどね。でもね……」
いつか母と一緒に暮らせるかもしれない。でもそのいつかを待っていたら間に合わないかもしれない。私は思い出を大切にしたいという母の気持ちを理解しながらも、現実的な母の体調という問題をいつまでもほってはおけないと思っていた。
気がつけば猫がソファの前のローテーブルの下から私を見あげている。出かけるまえに翔太が餌をあげていた猫だ。翔太は二階の自分の部屋にいるのか一階にはいない。
私はしゃがんで猫を抱きあげると夫の膝のうえに乗せた。
「おい、なんだ。なぜ猫がいるんだ」
夫は戸惑ったようだったが、乗せられた猫を払いのけるようなことはしなかった。
「今日から我が家の家族になったのよ。お母さんは来ないけど、代わりに猫が一緒に暮らすことになったということね」
「猫を飼ってもいいけど、毛がスーツにつくのはたまらないな」
母同様に猫好きの夫は思ったとおり嫌そうな顔はしなかった。以前、夫も猫が飼いたいと言っていたことがある。偶然とはいえ、猫は新しい家族の一員としてマイホームにやってきた。きっと翔太も夫も猫とは気ままに遊ぶだけだろう。
なんとなくではあったが、猫は本当にお母さんの代わりにやってきたように思えてならなかった。お母さんも猫のように気ままに来てくれたらいいのだけど……。
夫から猫を受け取って抱きかかえると心臓の鼓動が伝わってきた。みゅう、と鳴く猫を抱きかかえたまま私は身体を拭くために浴室へと向かった。