【ARUHI アワード2022 9月期優秀作品】『あなたとの一人暮らし』川瀬えいみ

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」とARUHIがコラボレーションし、2つのテーマで短編小説を募集する『ARUHI アワード2022』。応募いただいた作品の中から選ばれた9月期の優秀作品をそれぞれ全文公開します。

 大きく重い家具を売り払い、蔵書のほとんどを古書店に引き取ってもらいました。玄関先に並べていたプランターや鉢植えは、近所の奥様方がもらってくださった。家電や衣類も、人にあげられるものは差しあげて、寄付できるものは寄付し、残りは処分。引き取りに来てくださった業者さんが、『この電子レンジ、三十年ものですかあ』と驚いてらしたわ。
 手紙と写真と、あなたからもらった贈り物、他に生活に最低限必要なものだけをダンボール箱にまとめ、転居先に運んでもらいました。
 築四十五年の家に、今残っているのは、私と私がこれから持って出る小さなバッグだけ。
 以前は居間だった和室の真ん中に、私は一人で座っています。
 この家と別れる決心が、今更鈍ったわけではないの。未練がましい気持ちからでもない。ただ、気持ちを落ち着けるためだけに。そのためのささやかな儀式といったところかしら。
 私が、日本人女性の平均寿命まで生きていられるのなら、あと十五年は暮らしていたはずの家。四十年前の予定では、最後まであなたと一緒に。
 そういう家を離れるというのに、何の感懐も抱かなかったら、家に対して失礼というものだわ。

 十五年前、あなたと銀婚式を迎えた時、もの知らずだった私は、当然のごとく、銀婚式の次にくるのは金婚式なのだと思っていた。銀婚式までの二十五年間は長かったような短かったような。けれど、これから金婚式までの二十五年間はとても長くて、ずっと先にあるように感じていた。
 だから、その五年後に、あなたから真珠のネックレスを贈られた時には本当に驚いたものでした。もちろん、とても嬉しかったけれど、驚きの方が勝っていた。三十年目の真珠婚式なんてものがあるなんて、私は知らなかったのですもの。
 まさか、その翌日に、あなたが倒れて入院生活を余儀なくされることになるなんて、私は考えてもいなかった。
 私への贈り物を探して疲れるくらいなら、早く帰宅して、私の側で身体を休めてほしかった。
 贈り物が嬉しかったのは本当なのよ。でもね。
 あれから十年。幸か不幸か、私は健康で、あなたの許に行くのはまだ先のようだけど、この家を出るとなると、この家での思い出が走馬灯のように、私の心のスクリーンに映し出されます。

 まだ若かった頃、私たちは、この家を気に入って、手に入れて、二人で暮らし始めた。
 結婚したからこの家を手に入れたのだったか、この家を見付けたから結婚の決意をしたのだったか、はっきりしないくらい、私たちの結婚とこの家は密接に関わり合い繋がっている。
 数年後、真由子が生まれ、三人家族になった。三人だった頃は、毎日賑やかだったわね。
 お隣りの奥様に、三日に一度は、「いつも賑やかで羨ましいわ」と言われていたものよ。当時は、迷惑をお掛けしているのかしらと、恐縮していたくらい。
 真由子が就職し、生涯の伴侶に出会い、この家を出ていった直後よ。既にお亡くなりになっていたお隣りの奥様のお気持ちがわかったのは。
 真由子がいなくなった家の静けさに、私はなかなか慣れることができなかった。
 お隣りの奥様もそうだったのね。お隣りのご夫婦は、私たちよりちょうど一世代上のお歳だったから。
 それでも何とか、やっと元の二人暮らしの穏やかさに慣れてきた頃。現役を退いたら、二人で旅行に行って、同じ風景をそれぞれ絵に描いて比べてみようなんて計画をしていたのに、あなたったら、私を残して一人で先にいってしまうんですもの。
 恨みましたよ。旅行に行っても、一人きりでは絵の描き比べはできませんもの。
 それから十年、私は、一人で暮らすには広すぎるこの家で、一人暮らしを続けてきたのだけれど……。
 けれど、ついに、この家を出ることになってしまったの。
 先々月、居間の照明を付け替えようとして、私は踏み台から転げ落ちてしまったのよ。下は畳だったけれど、歳をとると骨ってとても脆くなるものなのね。しばらく、歩くたびに痛みが走って大変だった。
 そんな私を心配した真由子が、すぐに駆けつけられる場所で暮らしてほしいと言い出したの。
 真由子たちのマンションは、この家から車で一時間以上かかるところにあるから。
 それにね。あなたは会えなかった孫の高志。あの子が、この春から幼稚園に通うようになって――とてもやんちゃなのだけど、すぐに熱を出す子なものだから、気軽に頼れる身内が側にいると有難いと言ってくれた。
 私もね、全く悩まなかったわけではないの。一人で暮らすには広すぎるといっても、暮らし慣れた家ですもの。
 けれど、結局、この家と土地を売却して、真由子たちの家に近く、ここより交通の便がいいところに、一人暮らしにちょうどいいマンションを購入。そこに引っ越すことにしたの。
 真由子たちが暮らしている賃貸マンションのすぐ隣りの分譲マンションなのよ。二世帯住宅のマンション版というところかしら。
 広すぎず、新しく、病院も近い。今はまだ必要はないのだけれど、老人向けの福祉サービスも手配しやすいところなのですって。
 お部屋はすべてバリアフリーになっていて、どこにも段差がないのよ。真由子がね、とにかく転倒が心配だと言うものだから、それが決め手。
 しかも、今度のマンションの管理人さんは、頼めば、お部屋の蛍光灯も換えてくれるんですって。親切ではなく、管理業務の一環として。だから遠慮はいらないと言われたわ。
 昨今のマンションは、サービスも気配りも行き届いているのね。私、びっくりしてしまったわ。

 あなたがいなくなって十年。この家に残っていたあなたの匂いも薄れて、私自身も古びてきたから、この家の維持管理は難しい。
 何より、私の家族が増えることは、もうないから。
 そう考えて、決めました。
 懐かしい家。二人で選び、生活を始め、三人で暮らし、二人に戻り、一人になった、この家。
 この家を離れるのは寂しいわ。でも、あなたがいなくなってから十年の時間をかけて、私は、この家に残るあなたの思い出をすべて、自分の心の中に写し取った。いいえ、私の心に『移植した』と言った方が正確かしら。
 私の中にあるあなたとの思い出は、いつでもすぐに取り出して、抱きしめることができる。
 今の私の半分はあなたでできている。そう思うのよ。

 そういえば、まだあなたが元気だった頃、銀婚式の少し前だったかしら。私が高校の同窓会に出席したことがあったでしょう? あの時の出席者の中に、旦那様に先立たれた同窓生が二人いたの。その二人が、とても対照的だった。
 一人は、一日に一度は必ず『ありがとう』を言ってくれる優しい旦那様を亡くして泣き暮らしている人。日に日に生気がなくなって、鬱一歩手前。独立した息子さんに『若い頃の友だちに会って、気晴らしをしてくればいい』と勧められて、あまり気は乗らなかったのだけど、同窓会に出席したのだと言っていたわ。
 もう一人は、感謝の言葉もなく威張り散らすばかりで、横暴極まりなかった旦那様が急死して、開放感に歓喜している人。そう公言して憚らない人。
 優しい伴侶を失った妻と、夫という重い荷物を下ろした妻。
 私には、あの二人のどちらが幸せなのか、わからなかった。
 そして、考えたの。
 万一、あなたに先立たれたら、私はどちらになるのだろうって。
 答えは、あなたもご存じ。私はどちらにもならなかった。
 あなたは優しさ一辺倒の夫ではなかった。かといって、亭主関白というわけでもなく、ごく普通。
 私も、あなたに愛され守られるだけの妻ではなく、支配され従うだけの妻でもなく、やっぱりごく普通。
 私たちは、一年に一度くらいは大きな喧嘩もした。私は、意地を張って家を飛び出たこともあった。
 あれは、まだ真由子が生まれていなかったから、結婚して二年目か三年目くらい。勢いに任せて家を飛び出たまではよかったけれど、行くあてもないまま『遠く』へ向かった私は、いい歳をして迷子になってしまった。
 あなたは、私を捜しにきてくれて――。
 喧嘩の理由は憶えていないのに、あの時、小さな神社の境内で私を見付けてくれたあなたの、絶妙な角度に歪んだ左右の眉と眼鏡の曇りを、私はなぜか妙にはっきりと憶えている。
 ほぼ口をきかずに手を繋いで家に帰った私たちは、玄関に入る時にやっと、互いに『ごめんなさい』を言ったんでしたっけ。それが、合図をしたわけでもないのに、すっかり同じタイミングで、二人して笑ってしまった。
 ああ。懐かしい。本当に懐かしいけれど、つい昨日のことのよう。
 あの時のあなたの笑い声も、私は、しっかり私の中に録音しました。もう、この家の玄関に立たなくても、すぐに再生できます。

 これから私が生きていくために新居に持っていく、あなたとの思い出。あなたと作った、たくさんの思い出。
 それらはすべて、私の中に大切にしまってあります。
 私の半分はあなた。
 さあ、あなた。私と一緒に新しい家に参りましょう。
 二人で暮らすのが楽しみな、綺麗で可愛らしいお部屋ですよ。

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