何が辛いって、そんな気持ちを抱えながら家でも会社でも常に莉子と顔を合わせるのが辛い。
「聞いてくれよ。昨日、妻がさぁ」なんて愚痴を同僚に吐き出しでもすれば少しは気も晴れるだろうが、莉子が職場の上司だから言えない。もどかしい。
そんな悶々とした日々を過ごすある日。今日は残業になったから先に帰っといてと、昼休みに莉子からLINEが届いた。文章の後に続くのは涙を流すクマのスタンプ。
昼食を終えてオフィスに戻ると、眉をつり上げて書類を見つめる莉子の姿が視界に飛び込んだ。あれは精神的に追い込まれたときに見せる表情だ。
退社時には後ろ髪を引かれる思いだったが、少し一人になりたい気分でもあったから莉子には悪いがちょうどいい。
蒸し蒸しと不快な熱を帯びた夜道では、時おり通る生ぬるい風さえ心地良かった。漸く暗くなり始めた空に莉子が作ったシミのような丸い月が浮かんでいる。あぁ、今年の夏はもう二度とあのアロハに袖を通し、あのジーンズを履くことはないのか。
玄関の鍵を回すと、「ガチャ」と無機質な音がいつもより大きく響いた気がした。
共用廊下から射し込む光が玄関をほのかに照らし、下駄箱の上で肩を寄せ合い腰かける木製の人形が微笑む姿を浮かび上がらせた。一つは俺で、もう一つは莉子だ。
それは新婚旅行で莉子が一目惚れしたものだった。希望に満ち溢れていたあの頃が懐かしい。ほんの数ヶ月前のことだけれど。
俺は男の子の人形を動かし二人の距離を空けると、わずかに体の向きを変えてソッポ向くよう配置し直した。俺にできる小さな抵抗だった。
冷蔵庫にひき肉、トマト、玉ねぎがあるのを確認すると、今日のメニューはミートソーススパゲッティに決まった。莉子が最寄り駅に着いた頃に茹で始めればちょうどいい。
日頃の家事は分担しているのだが、ずっと一人暮らしだった俺は、ある程度の料理は作ることができた。嫌いじゃないし、むしろ味が定まらない莉子の料理を食べるよりずっと良い。
莉子の料理を食べるときの俺は「美味しいじゃん」と、なるべく味覚を感じぬよう舌の上を早く通過させて食道へと流し、そして、笑う。
莉子は「ちょっと、甘すぎじゃない?」なんて、作るのはイマイチだが、味覚は正しいから料理の失敗は反省し、次に活かす努力をする。
だから、それくらいは許容範囲だったし、むしろ莉子の成長過程が楽しみでもあった。
しかし、問題のアロハとジーンズについては同じ失敗を繰り返さないであろうにせよ、元の状態には戻せない。
フローリングの上に無残な姿となったアロハとジーンズを並べて眺める俺の目には、涙が滲んでいた。古着屋で一目惚れしたあの日が昨日のように思い出される。
あぁ、過去を振り返り悔やんでばかりなのは俺の悪い癖だ。
「よしっ!」
莉子を叱責するわけじゃない。嫌味を言うつもりもない。ただ、今日こそは俺がどれだけアロハとジーンズを愛していたか伝えておこうと決心した。
-いま、駅に着いたよ
「わかった。パスタ茹で始めるよ」
-ありがとっ
気丈には振る舞っていたが、電話越しに聞く莉子の声には覇気がなかった。
「ただいまぁ」
「おかえり。お腹空いただろ? ちょうどご飯できたところ」
「ありがと」
疲れた顔に無理やり笑顔を貼り付けた莉子だった。食事中もその様子は変わらない。
一緒に暮らし始めてから、こんなに疲れた莉子を見るのは初めてだった。服の話など到底切り出せやしなかった。
それからも莉子は連日の残業が続き、休日に出勤することもあった。どんなに重大なタスクを課されているのか分からない。莉子は家で仕事の話は一切しないし、せっかく仕事から離れて尚、仕事の話をこちらから切り出すのも憚られた。とはいえ職場でも他の社員には忙しさを表出せずに振る舞っているので、彼女の身に降りかかっているであろう事態の存在と、のしかかるストレスを知る平社員は俺だけだろう。