福岡県は、古くから交通の要衝、西日本の文化の中心として栄えてきました。博多どんたくや博多祇園山笠など、全国的にも有名なお祭りもあります。さて、今回は福岡県の難読地名クイズ、上級編です。福岡県在住の人でも、なじみがなければ難しいような地名を集めましたので、ぜひ挑戦してみてくださいね。
頂吉(北九州市小倉南区)
頂吉は北九州市南部に位置する山林地帯。木々に覆われた緑豊かなエリアです。キャンプや野外炊さんを楽しめる北九州市の施設もあります。
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↓その答えは?
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読み「かぐめよし」
頂吉内の福智山を、昔は「頂石(かごめいし)」と呼び、表記が「頂吉」に改められて、「かぐめよし」と呼ばれるようになったといわれています。1622年(元和8年)の文書には、頂吉村と記載されているそうです。
「頂」を「かごめ」や「かぐめ」と読む事例は非常にめずらしいですが、九州地方には「ふりかぐめる」「かぐめどん」などの方言があります。「ふりかぐめる」は、振り上げること、「かぐめどん」は、頭上にものを乗せて売り歩く人のことをいいます。
熊本地方では、頭上にものを載せることを「かぐむる」というそう。「かぐめる」「かぐむる」は、頭の上、つまり頂上を指すことから、「頂」をかぐめと読んだのでしょうか。
頂吉には七重の滝と呼ばれる、絶景スポットがあります。七重の滝は、7つの滝の総称。狭いエリアに「一の滝」「二の滝」というように、7つの滝が集中しているのです。特に美しいのが「七の滝」。白糸のように流れる滝に目を奪われます。
蜑住(北九州市若松区)
蜑住は、田園と山林が広がる美しい地域です。蜑住の戸明神社は、室町時代からつづく由緒ある神社。有名な天岩戸伝説に深く関係する神様がまつられています。
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↓その答えは?
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読み「あますみ」
蜑住は、「海士住」とも記されることもあった地域。海に接していないのに、「海」の字があてられたのかと疑問に思いますが、実は貞享〜元禄(1684〜1704年)年間の埋め立て事業前は、蜑住の南側は海だったのです。
今の蜑住は、山と緑に恵まれた地域ですが 、昔は島の一部。若松区全体が離島であったのを埋め立てて現在の姿になりました。
「蜑住」の「蜑」は、「海人(あま)」とも呼ばれる、魚や貝、海藻をとっていた人々のことをいいます。蜑住の別名、「海士住」の「海士」も「蜑」と同様に魚や貝などを採集して生計を立てていた人のことです。洞海湾 (どうかいわん)に面していたことから、蜑住にはそれらの職業に就いている人々が多かったのでしょうか。
蜑住の「戸明神社」は、天照大神が天岩戸に閉じこもってしまって神々が困り果てた「天岩戸伝説」に登場した、天手力雄大神と天児屋根大神がまつられている神社。天手力雄大神は、「力の神様」ですので、有名力士や親方なども参拝しているそうです。
敷地内には、天岩戸伝説をモチーフにした神様の像や、力石と呼ばれる有名力士が持ち上げた石やその写真も飾られています。大相撲好きの人には垂涎のスポットといえますね。
別府(福岡市城南区)
福岡市城南区にある別府は、中村学園大学や短期大学、別府小学校などを有する文教、住宅エリア。地下鉄七隈線別府駅もあり、福岡市中心部への交通アクセスの良い場所です。
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読み「べふ」
大分の別府のように「べっぷ」と読むのかと思いきや、「べふ」でした。「蒙古襲来絵詞」には「べふ」との記載があることから、昔から「べふ」と呼ばれていたことがわかります。
この地が別府と呼ばれるようになった由来は、以下の2つの説が濃厚とされています。
・別勅符田を略し、文字が変化して「別府」となった
律令制の下で、天皇から出される特別な命令である「別勅」によって、功績のある人物に与えられた田畑を、「別勅符田」と呼びました。この地には、別勅符田があり、それを省略して文字が変化して「別府」になったとされています。
ただし、別府は、丘陵地が多く与えられるだけの水田があったかどうかが定かではなく、この説が正しいとは言い切れません。
・豪族の「別府の太郎」に由来して別府になった
この地には、大宰府の役人やオフィシャルな別府とは関係のない、豪族の太郎という人物が住んでおり、「我こそは別府の太郎だ」と名乗っていたことから、この地が別府と呼ばれるようになったとのこと。
地名の由来には諸説あり、定かではありませんが、別府 は、元寇(蒙古襲来)の主戦場として知られているだけでなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は、この地を通って出陣したそうです。また別府地域には「福豊炭坑」があり、1958年(昭和33年)まで操業していました。別府は、律令の時代から現在に至るまで、歴史の表舞台に何度も登場する町です。
目尾(飯塚市)
目尾は、遠賀川の北部に位置するのどかなエリア。住宅と田園、山林が混在しており、緑豊かな暮らしを送ることができそうです。
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読み「しゃかのお」
目尾は、1342年(暦応5年)の時点で、「しゃくわんのをみやう(目尾名)」 と して文書に登場しています。目尾と呼ばれるようになったのは、律令の地方の役人である「目(さくわん)」の役人が住んでいたからだとする説があります。「目(さくわん)」は「さかん」とも呼ばれており、役割は国司といって地方の政務を執り行った役人です。
かつて、目尾には、「目尾炭坑」という麻生太吉が開坑した炭鉱がありました。麻生太吉は、現財務大臣、麻生太郎氏の曾祖父にあたります。
目尾炭坑は、筑豊地域では初めてとなる蒸気を動力とした「スペシャルポンプ」が導入された炭坑です。炭坑では、採掘によって地下水が湧いてしまうことが多く、そのたびに人力で水をくみ出していました。ところが、スペシャルポンプは水を蒸気の力でくみ出すことができるため、効率が劇的に改善されたのです。
ほかの炭坑でも相次いでスペシャルポンプが導入され、筑豊地域が炭坑の町として栄える1つの要因ともなりました。現在は、廃坑となった目尾炭坑ですが、目尾炭坑を含めた筑豊炭田遺跡群は「国指定史跡」となり、遺構が保存されています。
筑豊地域のロマンともいえる、炭坑の歴史に興味がある人は目尾を訪れてみてはいかがでしょうか。
清水町(豊前市)
清水町は清水神社が中心に位置し、岩岳川が流れる緑香る地域。豊前市街地からもほど近く、心温まる景色が広がっています。
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読み「しょうず」
「町」まで含めて「しょうず」と読みます。江戸時代には「清水町村」と書いて、「しょうずむら」と呼んでいました。
清水を「しょうず」と読む事例は、日本各地に点在しています。石川県河北郡津幡町の清水地区にある清水は、「しょうず」と呼ばれて地元の人々に愛されているそう。
また、福井県大野市には、「本願清水(ほんがんしょうず)」と呼ばれる水路があります。富山県の「生地駅(いくじえき)」がある生地は、清水の里(しょうずのさと)として有名です。豊前市の清水町も、古くからきれいな水が湧き出ている地域だったのでしょうか。
福岡の難読地名、上級編は福岡に住んでいる人でも難しいものが多かったのではないでしょうか。福岡の難読地名をひもとくと、筑豊地方の炭坑の歴史や、元寇についてなど、幅広いエピソードが飛び出してきて、引き込まれてしまいます。みなさんも、近くの変わった地名を調べてみてはいかがですか? 思いも寄らない人物や歴史と関係が深い土地かもしれません。