古くから商業の町として栄えてきた大阪。ユニバーサル・スタジオ・ジャパンや、海遊館、道頓堀など観光スポットが目白押しで 国内外から人気の都市です。
さて今回は、大阪府の難読地名、上級編をお届けします。あなたはいくつ読めるでしょうか?
王仁公園(枚方市)
王仁公園は、その名の通り王仁公園が広がるエリア。枚方市が管理する公園の中では最も広い王仁公園は、多くの枚方市民に愛されています。
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↓読み方は?
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読み「わにこうえん」
王仁公園は、公園の名前であると同時に町名でもあります。王仁公園の王仁は、「王仁博士」にちなんでいます。王仁博士とは、日本書紀によると応神天皇の時代に百済から派遣され、日本に論語と千字文をもたらしたとされる学者です。王仁博士の墓とされている墓碑が付近にあることから、公園として整備されて、地名も「王仁公園」となりました。
王仁博士が持ってきた「千字文」とは、中国で漢字を学ぶために1,000個の漢字を用いた詩文のこと。千字文には漢字学習の初心者向けに、基礎的な漢字が集められています。
ただ、後の考証ではこのときに持ち込まれた文書が論語と千字文である確証はないとされているようです。
王仁公園には、さまざまなレジャースポットが目白押しです。プール施設には、流水プールに波のプール、9コースの競泳プールに水深の浅い幼児プールなど、多彩なプールが揃います。遊園地に付属しているような、本格レジャープールにもひけをとらないラインナップです。
さらにテニスコートにバレーコートなど本格的な球技施設も充実しています。
FC大阪スタッフが指導してくれるサッカー教室も人気です。
夏だけでなく一年中楽しめる王仁公園は、まさに枚方市民の憩いのスポットですね。
孝子(泉南郡岬町)
孝子は、大阪と和歌山の境界に位置する山あいの地域。南海電鉄の孝子駅があり、飯盛山や高仙寺が人気スポットです。
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↓その読み方は?
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読み「きょうし」
孝子の由来は、平安時代の橘逸勢(たちばなのはやなり)の娘にちなんで名付けられた説と、役行者(えんのぎょうじゃ)にちなんで名付けられた説の2通りが存在します。
亡くなった橘逸勢を弔った娘にちなんで名付けられた
橘逸勢とは、三筆に数えられる人物。最澄、空海とともに唐(中国)に留学をしていました。
帰国してから36年が経過した842年(承和9年)に、承和の変というクーデターの首謀者として伊豆(静岡県)に流刑となりましたが、途中で死亡してしまいました。
橘逸勢の娘は、死亡した父親をこの地に葬って、尼僧になり弔っていたとのこと。その父親への孝心にちなんで、この地が「孝子」と名付けられたそうです。現在の孝子には、橘逸勢と娘の墓とされる墓が残されています。
役行者にちなんで名付けられた
役行者は飛鳥時代の修験道の開祖といわれる人物で、呪術者ともいわれています。孝子には役行者が開祖とされている高仙寺があり、そこには役行者の母親の墓があると伝えられているとのこと。
役行者が役人に追われていたとき、母が捕らえられそうになったため、母をかばうために、役行者がこの土地で自ら役人に捕らえられた という逸話が残されています。そのことから、 孝子と呼ばれるようになったとされています。残念ながら母親は、孝子で死亡してしまったそうです。
いずれの説でも、「孝行な子ども」がこの地に関係していたことからこの土地が、「孝子」と名付けられたとしています。ちなみに、日本では孝行な子どものことを「孝子」と呼んでいました。今昔物語集などの古い文書の中でも、孝行な子どものことを「孝子」と表現しています。
茱萸木(大阪狭山市)
大阪狭山市の茱萸木は、国道310号線沿いに南北に広がる市街地。国道沿いに飲食店が建ち並び、その奥には住宅地が広がっています。
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↓その読み方は?
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読み「くみのき」
茱萸木の由来は、茱萸という植物が多数あったことから名付けられた説と、1263年(弘長3年)の太政官符に「佐志久美岡」とあり、そこから転じて茱萸木となった説など諸説あるようです。
太政官符とは、律令時代に中央省庁から地方に発せられた公文書のこと。茱萸が多数生えていたことから茱萸木となった説が記載されているのは1736年(享保20年)「河内志」ですので、年代としては「佐志久美岡」のほうが信憑性が高いでしょうか。
茱萸木地域は、江戸時代に新田開発が行われた地域です。茱萸木の北側には、日本最古といわれる ため池「狭山池」があります。狭山池には1400年の歴史があり、国の史跡にも指定されています。桜の名所、蝶の森としても有名ですので散策にも最適ですね。
芝生町(高槻市)
芝生町は、高槻市市民プールや青少年運動広場のある、高槻市民の憩いのエリア。きれいに区画整理が された新興住宅地も広がっており、暮らしやすい地域ですね。
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↓その読み方は?
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読み「しぼちょう」
昔はしぼではなく、「しぼう」と呼ばれていたこともあるようです。芝生を「しぼう」と読む地名は全国に点在しています。
高槻市の芝生は、1594年(文禄3年)の文書で確認できることから、戦国期にはすでに芝生と呼ばれていたようです。芝生町の地名の由来は明らかになっていませんが、全国に同様に読む地名があることから、芝生は「しぼう」と呼んでいたと考えるのが自然です。
現在の芝生町の青少年運動広場には、全面人工芝の広大なグラウンドがあり、サッカーを中心としたスポーツが日々行われています。
道祖本(茨木市)
道祖本は茨木市の茨木カンツリー倶楽部のコースが、そのほとんどを占めるエリア。ちなみに茨木市は「いばらき」と読むのですが、大阪になじみの薄い人は、「いばらぎ」と読んでしまいがちな誤読されやすい地名です。
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↓その読み方は?
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読み「さいのもと」
道祖本は地域内の「道祖神社」にちなんで名付けられたとのこと。道祖神社は、「どうそじんじゃ」と読み、道祖神(どうそじん)にちなんだ神社です。道祖神は、どうそじんだけでなく、「さいのかみ」とも読まれていましたので、道祖本を「さいのもと」と読むことはできます。
道祖神とは、村の境にあり、村の外からの悪霊の侵入を遮る役割を果たす神様です。さえぎるの旧仮名遣いである「さへぎる」から、「さへの神」と記されることもありました。
かつて道祖本村と呼ばれていた時代は、現在の豊川 や宿川原町、南清水町なども含まれていました。道祖本の由来となった道祖神社も、道祖本の南側に位置する豊川に現存しています。
道祖本の北東には、郡山宿 椿(こおりやましゅく つばき)の本陣と呼ばれる江戸時代の宿泊施設がありました。本陣とは、宿場町の中でも大名など限られた身分の人物しか宿泊が許されなかった場所です。
現存している建物は1721(享保6年)年に建築されたもので、国の史跡に指定されています。コロナ禍発生前は、事前に電話予約をすれば無料で見学可能でした。現時点(2020年10月10日)では見学を中止していますが茨木市が見学動画をアップしているので、自宅で江戸の趣を楽しんでみてもいいですね。
大阪の難読地名は、大阪の歴史を物語る生き証人のように、知られざる大阪の歴史の片鱗を見せてくれました。
難読地名だけでなく、ごく当たり前に用いられている地名にもさまざまな由来がありますので、興味がある方はぜひ調べてみてください。思いもよらない驚きのエピソードが飛び出すかもしれません。