ベッドタウンのイメージが強い埼玉には、実は魅力的な観光地もたくさんあります。東武動物公園に、鉄道博物館、埼玉県こども動物自然公園など、大人も子どもも楽しめるスポットが目白押し。今回はそんな埼玉県の、難読地名シリーズの上級編をお届けします。住んでいる人でなければわからないような難読地名を集めましたので、ぜひ挑戦してみてください。
西遊馬(さいたま市西区)
西遊馬はさいたま市西区の荒川沿いの地域。西遊馬公園や学校や企業のグラウンドなど、緑が多く広がるエリアです。
↓
↓その答えは?
↓
読み「にしあすま」
西遊馬は、戦国期から「遊馬郷」と呼ばれていました。江戸時代の文書には「遊馬新田村」と記載されており、長い間「遊馬」と呼ばれていたことがわかります。遊馬に「西」がつけられたのは、1879年(明治12年)とのこと。草加市の東遊馬に対して、西がつけられたそうです。ちなみに、草加市の東遊馬は1958年(昭和33年)に東遊馬から遊馬町に町名が変更されています。
「遊馬」と呼ばれるようになった由来は、「馬を放し飼いにする場所であったから」という説と、荒川沿岸の低湿地帯の狭間だったからという説があります。
『埼玉県地名誌 改訂新版』では、水深が浅い場所のことを「あそ」といい、「ま」には狭間の意味があるため、「あすま」ではなく「あそま」が正しいのではと解釈されていました。
現在の西遊馬は、西遊馬公園が有名。2面の野球場とサッカー場、10面のテニスコートがある総合運動場です。また、遊馬苑という馬車や乗馬用の馬の出張サービスを提供している会社があり、『暴れん坊将軍』で松平健さん演じる徳川吉宗が乗っていた白馬も、こちらに所属しているそう。ポニートレーナーの養成講座や各種イベントを開催するなど、馬とのふれあいも楽しめるスポットです。
五十子(本庄市)
本庄市の五十子は、女堀川沿いの住宅と畑が混在する地域。飲食店もほどよく集まり、暮らしやすそうな地域です。
↓
↓その答えは?
↓
読み「いかっこ」
実は、五十子は本庄市内に「五十子」と「東五十子」、「西五十子」の合計3ヶ所存在しています。いずれも近隣の地域で、江戸時代以前は五十子村とされていました。
現代は、五十子は「いかっこ」と読まれていますが、江戸時代の国学者小山田与清の日記によると「いかこ」と呼ばれていたそう。また元禄郷帳と呼ばれる史料では「東五十子村」は「ひがしいかご」と記されており、読まれ方は完全に統一されていなかったと考えられます。
また、秩父・児玉・大里・比企などの地方について、さまざまな史料を引用して編集した「北武蔵名跡志」には別の説も記載されています。昔は生後50日も「五十日の祝(いかのいわい)」として、お餅を子どもの口に含ませる行事がありました。この行事で「五十日」を「いか」と呼ぶことからこの地域も「いかっこ」と呼ぶようになったとの解釈です。
ちなみに、東五十子には「五十子陣」という歴史的に有名な陣地が敷かれていました。これは、関東管領上杉氏と古河公方足利氏の戦である享徳の乱(1455〜1483年)の際に、関東管領側によって築かれた陣地です。五十子陣は20年程度陣地としての機能を有していました。現在の東五十子には、五十子陣そのものは残っていませんが地形の名残が残っているようです。
靭負(比企郡小川町)
靭負は、東武東上線の東武竹沢駅が位置する山あいの地域。近隣には、ゴルフ場や、自動車工場など広大な土地を活かした施設が点在しています。
↓
↓その答えは?
↓
読み「ゆきえ」
1673年(延宝元年)の「竹沢村水帳」という文書に、靭負の記載があることから、少なくとも江戸初期には靭負と呼ばれていたことがわかります。
この地が靭負と呼ばれるようになった理由は定かではありませんが、靭負は古くから存在する役職名の1つ。靭負は「ゆきおい」や「ゆげい」と呼ばれることもあり、古代は朝廷を守っていた役職です。推測の域を出ませんが、地名はその地を治めた人物から名付けられることもあるため、古くに「靭負職に就いていた人物」、もしくは「靭負」と名乗る人物が治めていたことがあるのでしょうか。日本では、役職名を名前とする事例が数多くあり、靭負という名前の人物も存在しています。
靭負が属する小川町は和紙の産地として知られる地域。靭負も江戸時代から紙漉き(かみすき)や紙売りを営む農家が多くありました。明治期の記録には、繭や絹糸、和紙、半紙を産出していると記されています。
小川町は武蔵の小京都と呼ばれる雅な地域で、古くからの町並みや建造物が数多く残されています。4日間連続で小川和紙を作る本格派体験イベントが随時開催され、和紙の作り方をゼロから学ぶこともできます。
東武東上線で、池袋から1時間程度で到着する小京都・小川町は、穏やかなときを過ごしたい人にとってはぴったりな場所ですね。
如意(入間郡越生町)
入間郡越生町の如意は、入間カントリー倶楽部のコースと、山林、田畑が広がる緑豊かな地域。ちなみに如意がある「越生町」は「おごせまち」と読み、こちらも難読地名といえそうです。
↓
↓その答えは?
↓
読み「ねおい」
如意は、如意輪観音を本尊としていた「如意寺(にょいでら)」から名付けられたといわれています。越生町の如意以外にも、如意を「ねおい」と読む事例は存在することから、「にょい」がなまって「ねおい」になったと考えられます。
ちなみに越生以外に如意を「ねおい」と呼ぶほかの例としては、 福岡県糸島市の妙立寺の如意輪観音像があり、「ねおいの観音様」と呼ばれています。
この地が如意と呼ばれるようになった由来となったのも如意輪観音ですので、いずれの観音像も「ねおい」と転じている点 は非常に興味深いものです。
現在の如意には、如意輪観音像のみが残されており、埼玉県の指定文化財に指定されています。如意輪観音像は1162年(応保2年)作。製作年がわかる仏像の中では、関東地方最古のものです。
越生町は、太田道灌にちなんだ名所も存在している、歴史の香り豊かな地域です。太田道灌は、徳川家康が江戸に入る前に江戸城を築城した戦国武将。越生町や川越市では「太田道灌を大河ドラマに!」と銘打ったキャンペーンが開催されています。太田道灌が大河ドラマの主人公に抜擢されれば、越生町も大きく脚光を浴びそうですね。
外国府間・内国府間(幸手市)
外国府間は、権現堂川の西側に位置する日光街道沿いの地域。現在の外国府間には、田畑が広がっています。内国府間は外国府間の南側に位置し、同じく日光街道が中心を走っているのどかな地域です。
↓
↓その答えは?
↓
読み「そとごうま」・「うちごうま」
外国府間と内国府間はそれぞれ江戸時代以前から存在している地名です。元は同じ村であったと考えられていますが、1649〜1650年(慶安2〜3年頃)の史料ではすでに外国府間と内国府間に分かれているとのこと。
外国府間と内国府間を「そとごうま」「うちごうま」と呼ぶようになったのは、河間(こうま)から来ているといわれています。
確かに、外国府間は河に囲まれている地域です。実は河間と書いて「こうま」と読む地域は、新潟県や福井県にも存在しています。
しかしながら、「こうま」に「国府間」の文字をあてた理由は定かではありません。「国府」とは、大化の改新から平安時代頃までに行政府が置かれていた土地のこと。
埼玉県は武蔵国の一部であり、武蔵国の国府は現在の東京都府中市に置かれていました。外国府間や内国府間が位置する幸手市から府中の国府跡までは、車を使っても2時間ほどかかる距離であり、当時は気軽に移動できた場所ではありません。
外国府間、内国府間ともに名付けられ方は理解しやすいものの、字のあて方には疑問が残ります。
現在の内国府間は、権現堂堤の1,000本の桜並木が有名です。例年、桜まつりの時期は幸手駅から臨時バスも運行されているので、桜好きの人は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
埼玉県の難読地名上級編、いくつ読めましたか? 難読地名の謎を探ることで、知られざる埼玉の歴史の一端に触れることができたのではないでしょうか。難読地名だけでなく、多くの地名には意外な由来や歴史が詰まっていますので、ゆかりのある地名について調べてみると楽しいですよ。